勿体《もったい》ない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」
 こういう父の顔には深い掛念《けねん》の曇《くも》りがかかっていた。こういわれる私の胸にはまた父がいつ斃《たお》れるか分らないという心配がひらめいた。
「しかし大丈夫だろう。おれのような下《くだ》らないものでも、まだこうしていられるくらいだから」
 父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己《おの》れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖《こわ》がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭《ふ》いた。

     五

 父の元気は次第に衰えて行った。私《わたくし》を驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子《むぎわらぼうし》が自然と閑却《かんきゃく》されるようになった。私は黒い煤《すす》けた棚の上に載《の》っているその帽子を眺《なが》めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が
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