反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑《ぶべつ》の方が余計に現われていました。
 こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角《せっかく》積み上げた過去を蹴散《けち》らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」
 私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
 Kはぴたりとそこへ立ち留《ど》まったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那《せつな》に居直《いなお》り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣《めづか》いを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々《そろそろ》とまた歩き出しました。

     四十二

「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗《あん》に待ち受けました。あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを騙《だま》し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍《そば》へ来て、お前は卑怯《ひきょう》だと一言《ひとこと》私語《ささや》いてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私を窘《たしな》めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私はその時やっとKの眼を真向《まむき》に見る事ができたのです。Kは私より背《せい》の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼《おおかみ》のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話は止《や》めよう」と彼がいいました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと挨拶《あいさつ》ができなかったのです。するとKは、「止《や》めてくれ」と今度は頼むようにいい直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼《おおかみ》が隙《すき》を見て羊の咽喉笛《のどぶえ》へ食《くら》い付くように。
「止《や》めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
 私がこういった時、背《せい》の高い彼は自然と私の前に萎縮《いしゅく》して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話す通り頗《すこぶ》る強情《ごうじょう》な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質《たち》だったのです。私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然《そつぜん》「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言《ひとりごと》のようでした。また夢の中の言葉のようでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川《こいしかわ》の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋《さび》しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味《あおみ》を失った杉の木立《こだち》の茶褐色《ちゃかっしょく》が、薄黒い空の中に、梢《こずえ》を並べて聳《そび》えているのを振り返って見た時は、寒さが背中へ噛《かじ》り付いたような心持がしました。我々は夕暮の本郷台《ほんごうだい》を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡《おか》へ上《のぼ》るべく小石川の谷へ下りたのです。私はその頃《ころ》になっ
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