たつおかちょう》から池《いけ》の端《はた》へ出て、上野《うえの》の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合《そうごう》して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引《ひ》っ張《ぱ》り出《だ》したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵《ふち》に陥《おちい》った彼を、どんな眼で私が眺《なが》めるかという質問なのです。一言《いちごん》でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。そこに私は彼の平生《へいぜい》と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は他《ひと》の思わくを憚《はば》かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家《ようか》事件でその特色を強く胸の裏《うち》に彫《ほ》り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がKに向って、この際|何《な》んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然《しょうぜん》とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外《ほか》に仕方がないといいました。私は隙《す》かさず迷うという意味を聞き糺《ただ》しました。彼は進んでいいか退《しりぞ》いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇《かわ》き切った顔の上に慈雨《じう》の如く注《そそ》いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。
四十一
「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体《からだ》、すべて私という名の付くものを五|分《ぶ》の隙間《すきま》もないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞《ようさい》の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺《なが》める事ができたも同じでした。
Kが理想と現実の間に彷徨《ほうこう》してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打《ひとうち》で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚《きょ》に付け込んだのです。私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽《こっけい》だの羞恥《しゅうち》だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿《ばか》だ」といい放ちました。これは二人で房州《ぼうしゅう》を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐《ふくしゅう》ではありません。私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言《いちごん》でKの前に横たわる恋の行手《ゆくて》を塞《ふさ》ごうとしたのです。
Kは真宗寺《しんしゅうでら》に生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨《しゅうし》に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女《なんにょ》に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進《しょうじん》という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲《きんよく》という意味も籠《こも》っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲《せつよく》や禁欲《きんよく》は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害《さまたげ》になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃《ころ》からお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に
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