杉苗の傍《そば》に、熊笹《くまざさ》が三坪《みつぼ》ほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十《とお》ぐらいの小供《こども》が馳《か》けて来て犬を叱《しか》り付けた。小供は徽章《きしょう》の着いた黒い帽子を被《かぶ》ったまま先生の前へ廻《まわ》って礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、家《うち》に誰《だれ》もいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、今日《こんち》はって、断ってはいって来ると好《よ》かったのに」
 先生は苦笑した。懐中《ふところ》から蟇口《がまぐち》を出して、五銭の白銅《はくどう》を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
 小供は怜悧《りこう》そうな眼に笑《わら》いを漲《みなぎ》らして、首肯《うなず》いて見せた。
「今|斥候長《せっこうちょう》になってるところなんだよ」
 小供はこう断って、躑躅《つつじ》の間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾《しっぽ》を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。

     二十九

 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産|云々《うんぬん》の掛念《けねん》はその時の私《わたくし》には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解《わか》らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
 犬と小供《こども》が去ったあと、広い若葉の園は再び故《もと》の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖《と》ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光
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