に財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰《もら》うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
私《わたくし》は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣《ことばづか》いをするのが気に触《さわ》ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
先生の口気《こうき》は珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の兄弟《きょうだい》は何人でしたかね」と先生が聞いた。
先生はその上に私の家族の人数《にんず》を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、叔父《おじ》や叔母《おば》の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな善《い》い人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵|田舎者《いなかもの》ですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
私はこの追窮《ついきゅう》に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚《しんせき》なぞの中《うち》に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型《いかた》に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後《うし》ろの方で犬が急に吠《ほ》え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある
前へ
次へ
全186ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング