が適当でしょう。
酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打《う》ち遣《や》って置きます。私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞《せきばく》でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正《まさ》しく失恋のために死んだものとすぐ極《き》めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易《たやす》くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋《さむ》しくって仕方がなくなった結果、急に所決《しょけつ》したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄《ぞっ》としたのです。私もKの歩いた路《みち》を、Kと同じように辿《たど》っているのだという予覚《よかく》が、折々風のように私の胸を横過《よこぎ》り始めたからです。
五十四
「その内|妻《さい》の母が病気になりました。医者に見せると到底《とうてい》癒《なお》らないという診断でした。私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした。私はそれまでにも何かしたくって堪《たま》らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手《ふところで》をしていたに違いありません。世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善《い》い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅《つみほろぼ》しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
母は死にました。私と妻《さい》はたった二人ぎりになりました。妻は私に向って、
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