対して己《おの》れを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔《ざんげ》の言葉を並べたなら、妻は嬉《うれ》し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印《いん》するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫《ひとしずく》の印気《インキ》でも容赦《ようしゃ》なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。
一年|経《た》ってもKを忘れる事のできなかった私の心は常に不安でした。私はこの不安を駆逐《くちく》するために書物に溺《おぼ》れようと力《つと》めました。私は猛烈な勢《いきおい》をもって勉強し始めたのです。そうしてその結果を世の中に公《おおやけ》にする日の来るのを待ちました。けれども無理に目的を拵《こしら》えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは嘘《うそ》ですから不愉快です。私はどうしても書物のなかに心を埋《うず》めていられなくなりました。私はまた腕組みをして世の中を眺《なが》めだしたのです。
妻はそれを今日《こんにち》に困らないから心に弛《たる》みが出るのだと観察していたようでした。妻の家にも親子二人ぐらいは坐《すわ》っていてどうかこうか暮して行ける財産がある上に、私も職業を求めないで差支《さしつか》えのない境遇にいたのですから、そう思われるのももっともです。私も幾分かスポイルされた気味がありましょう。しかし私の動かなくなった原因の主なものは、全くそこにはなかったのです。叔父《おじ》に欺《あざむ》かれた当時の私は、他《ひと》の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他《ひと》を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己《おれ》は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事《みごと》に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他《ひと》に愛想《あいそ》を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
五十三
「書物の中に自分を生埋《いきう》めにする事のできなかった私は、酒に魂を浸《ひた》して、己《おの》れを忘れようと試みた時期もあります。私は酒
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