断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮《こうふん》していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口《ひとくち》金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪《ぞうお》と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐《ちんぷ》だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷《ひや》やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体《たい》が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
九
「一口《ひとくち》でいうと、叔父は私《わたくし》の財産を胡魔化《ごまか》したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易《たやす》く行われたのです。すべてを叔父|任《まか》せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊《たっと》い男とでもいえましょうか。私はその時の己《おの》れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜《くや》しくって堪《たま》りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵《ちり》に汚れた後《あと》の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父《おじ》は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑《げび》た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹《いとこ》を愛していないだけで、嫌ってはいなかったの
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