、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖《くちくせ》のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛《か》かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕《つら》まえる機会を得ませんでした。
私は叔父が市の方に妾《めかけ》をもっているという噂《うわさ》を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪《あや》しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚《おぼ》えのない私は驚きました。友達はその外《ほか》にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他《ひと》から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
私はとうとう叔父《おじ》と談判を開きました。談判というのは少し不穏当《ふおんとう》かも知れませんが、話の成行《なりゆ》きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途《みち》のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑《さいぎ》の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
遺憾《いかん》ながら私は今その談判の顛末《てんまつ》を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿《たど》りつきたがっているのを、漸《やっ》との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執《と》る術《すべ》に慣れないばかりでなく、貴《たっと》い時間を惜《おし》むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油
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