の事などを話した。今まで何遍《なんべん》もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念《かたみ》のように耳へ受け入れた。
 父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言《ゆいごん》らしいものを口に出さなかった。
「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好《よ》し悪《あ》しだと考えていた。二人は決しかねてついに伯父《おじ》に相談をかけた。伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」
 話はとうとう愚図愚図《ぐずぐず》になってしまった。そのうちに昏睡《こんすい》が来た。例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。「まあああして楽に寝られれば、傍《はた》にいるものも助かります」といった。
 父は時々眼を開けて、誰《だれ》はどうしたなどと突然聞いた。その誰はつい先刻《さっき》までそこに坐《すわ》っていた人の名に限られていた。父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇《やみ》を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡《こんすい》状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
 そのうち舌が段々|縺《もつ》れて来た。何かいい出しても尻《しり》が不明瞭《ふめいりょう》に了《おわ》るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。我々は固《もと》より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすと好《い》い心持ですか」
「うん」
 私は看護婦を相手に、父の水枕《みずまくら》を取り更《か》えて、それから新しい氷を入れた氷嚢《ひょうのう》を頭の上へ載《の》せた。がさがさに割られて尖《とが》り切った氷の破片が、嚢《ふくろ》の中で落ちつく間、私は父の禿《は》げ上った額の外《はずれ》でそれを柔らかに抑《おさ》えていた。その時兄が廊下伝《ろうかづた》いにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。空《あ》いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
 それは普通の手紙
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