るとその端《はず》れに見える茶店《ちゃみせ》の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡《めがね》の縁《ふち》が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二|遍《へん》繰り返した。その言葉は森閑《しんかん》とした昼の中《うち》に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応《こた》えられなくなった。
「私の後《あと》を跟《つ》けて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中《うち》には判然《はっきり》いえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰《だれ》の墓へ参りに行ったか、妻《さい》がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
 先生はようやく得心《とくしん》したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解《わか》らなかった。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々《イサベラなになに》の墓だの、神僕《しんぼく》ロギンの墓だのという傍《かたわら》に、一切衆生悉有仏生《いっさいしゅじょうしつうぶっしょう》と書いた塔婆《とうば》などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫《ほ》り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々《ひとさまざま》の様式に対して、私ほどに滑稽《こっけい》もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石《はかいし》だの細長い御影《みかげ》の碑《ひ》だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目《まじめ》に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏《いちょう》が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢《こずえ》を見上げて、「もう少しすると、綺麗《きれい》ですよ
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