たのである。
「相当の口って、近頃《ちかごろ》じゃそんな旨《うま》い口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」
「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男《じなん》は、大学を卒業なすって何をしてお出《いで》ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」
 父は渋面《しゅうめん》をつくった。父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。その郷里の誰彼《だれかれ》から、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、まあ百円ぐらいなものだろうかといわれたりした父は、こういう人々に対して、外聞の悪くないように、卒業したての私を片付けたかったのである。広い都を根拠地として考えている私は、父や母から見ると、まるで足を空に向けて歩く奇体《きたい》な人間に異ならなかった。私の方でも、実際そういう人間のような気持を折々起した。私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔《けんかく》の甚《はなはだ》しい父と母の前に黙然《もくねん》としていた。
「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好《い》いじゃないか。こんな時こそ」
 母はこうより外《ほか》に先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。
「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
 私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
 父はこういって、私を諷《ふう》した。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟《ひっきょう》やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
 父はこうもいった。私はそれでもまだ黙
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