れでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉《うれ》しいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹《なか》のなかではまだ大丈夫だと思ってお出《いで》のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家《うち》にいる気かなんて」
私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家《いなかや》を想像して見た。この家《いえ》から父一人を引き去った後《あと》は、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰《もら》うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試《ため》しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑《けんのん》さ」
私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐《ちんぷ》なような母の言葉を黙然《もくねん》と聞いていた。
三
私《わたくし》のために赤い飯《めし》を炊《た》いて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうちで暗《あん》にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山《ぎょうさん》な事は止《よ》してください」
私は田舎《いなか》の客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば好《い》いといった風《ふう》の人ばかり揃《そろ》っていた。私は子供の時から彼らの席に侍《じ》するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚《はなはだ》しいように想像された。しかし私は父や母の手前
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