れぎり奥さんの厭《いや》がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお大事《だいじ》に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
 私は挨拶《あいさつ》をして格子《こうし》の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした木犀《もくせい》の一株《ひとかぶ》が、私の行手《ゆくて》を塞《ふさ》ぐように、夜陰《やいん》のうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被《おお》われているその梢《こずえ》を見て、来たるべき秋の花と香を想《おも》い浮べた。私は先生の宅《うち》とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然その樹《き》の前に立って、再びこの宅の玄関を跨《また》ぐべき次の秋に思いを馳《は》せた時、今まで格子の間から射《さ》していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
 私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調《ととの》える買物もあったし、ご馳走《ちそう》を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ賑《にぎ》やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女《なんにょ》がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある酒場《バー》へ連れ込んだ。私はそこで麦酒《ビール》の泡のような彼の気※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。

     三十六

 私《わたくし》はその翌日《よくじつ》も暑さを冒《おか》して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変|臆劫《おっくう》に感ぜられた。私は電車の中で汗を拭《ふ》きながら、他《ひと》の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者《いなかもの》を憎らしく思った。
 私はこの一夏《ひとなつ》を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行《りこう》するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善《まるぜん》の二階で潰《つぶ》す覚悟でいた。私は自分に関係
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