わ、ねえあなた。老少不定《ろうしょうふじょう》っていうくらいだから」
奥さんはことさらに私の方を見て笑談《じょうだん》らしくこういった。
三十五
私《わたくし》は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固《もと》より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極《きま》った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお父《とう》さんやお母さんなんか、ほとんど同《おんな》じよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮《さえぎ》った。
「そんな話はお止《よ》しよ。つまらないから」
先生は手に持った団扇《うちわ》をわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「静《しず》、おれが死んだらこの家《うち》をお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は他《ひと》のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは皆《みん》なお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰《もら》っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍《なんべん》おっしゃるの。後生《ごしょう》だからもう好《い》い加減にして、おれが死んだらは止《よ》して頂戴《ちょうだい》。縁喜《えんぎ》でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそ
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