生涯《しょうがい》照りっこない天気と同じ苦痛である。ただ土の下へ心が沈む丈《だけ》で、人情から云っても道義心から云っても、殆《ほと》んど此圧迫の賠償《ばいしょう》として何物も与えられていない。ただ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を読むものは、屹度《きっと》自分も泥の中を引《ひ》き摺《ず》られるような気がするだろう。余もそう云う感じがした。或者は何故《なぜ》長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑がうかも知れない。そんな人に対して余はただ一言、斯様《かよう》な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠《ほどとお》からぬ田舎《いなか》に住んで居るという悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱《だ》き締《し》めて見たら、公等の是から先の人生観の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの参考として利益を与えはしまいかと聞きたい。余はとくに歓楽に憧憬《しょうけい》する若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、此「土」を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募《つの》る時分になったら、余は是非此「土」を読ましたいと思って居る。娘は屹度《きっと》厭《いや》だというに違ない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えて呉《く》れというに違ない。けれども余は其時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思って居る。参考の為だから、世間を知る為だから、知って己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる為だから我慢して読めと忠告したいと思って居る。何も考えずに暖かく成長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心《ぼだいしん》や宗教心は、皆此暗い影の奥から射して来るのだと余は固く信じて居るからである。
 長塚君の書き方は何処迄《どこまで》も沈着である。其人物は皆|有《あり》の儘《まま》である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載《の》せ始めた時、北の方のSという人がわざわざ書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面会した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「満韓ところどころ」というものをSの所で一回読んで、漱石という男は人を馬鹿にして居るといって大いに憤慨したそうである。漱石に限らず一体「朝日新聞」の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして
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