『傳説の時代』序
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)偸《ぬす》んで

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一行|毎《ごと》に

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]ーナス

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
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 私はあなたが家事の暇を偸《ぬす》んで『傳説の時代』をとう/\仕舞《しまひ》迄《まで》譯し上げた忍耐と努力に少からず感服して居ります。書物になつて出ると餘程《よほど》の頁數になるさうですが嘸《さぞ》骨の折れた事でせう。原書は私の手元にもあるから承知してゐますが、一寸《ちよつと》見ると四六版の小形の册子に過ぎませんけれども、活字は細《こま》かし、上下は詰つてゐるし、讀むのにさへ隨分《ずいぶん》の時間は懸《かか》ります。況《ま》して一行|毎《ごと》に譯して行くとなつたら、それを專業にする男の手でもさう容易《たやす》くは出來ません。況《ま》して夫の世話をしたり子供の面倒を見たり弟の出入に氣を配つたりする間に遣《や》る家庭的な婦人の仕業《しわざ》としては全くの重荷に相違ありません。あなたは前後八ヶ月の日子《につし》を費《つひ》やして思ひ立つた翻譯を成就《じやうじゆ》したと云《い》つて寧《むし》ろ其《その》長きに驚ろかれるやうだが、私は却《かへ》つて其《その》迅速《じんそく》なのに感服したいのです。
 出版に就《つい》て私の序文が御入用だとの仰《おほせ》は謹んで承りましたが、私はあらゆるミスに就《つい》て何事もいふ權利を有《も》たない無學者なのだから少からず困却します。私は希臘《ギリシア》の神話に就《つ》いて、あそこを少し、こゝを少し、と云つた風にうろ覺えに覺えてはゐますが、系統的には研究もせず、批判もせず、漫然と今日|迄《まで》經過して來た事を、今日あなたの前に自白しなければならなくなりました。あなたの御譯しになつた原書は、今でもちやんと私の書架《しよか》の中に飾《かざ》つてあります。それを買つたのは何時《いつ》の頃の事か覺えてゐない位《くらゐ》ですから定《さだ》めし古い昔だらうと思ひます。けれども其《その》昔に買つた本を、今
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