浮動するやうな文章は恐らくあるまい。それは到底出來得べからざる事だらうとおもふ。私の考では自然を寫す――即ち敍事といふものは、なにもそんなに精細に緻細に寫す必要はあるまいとおもふ。寫せたところでそれが必ずしも價値のあるものではあるまい。例へばこの六疊の間でも、机があつて本があつて、何處に主人が居つて、何處に煙草盆があつて、その煙草盆はどうして、煙草は何でといふやうな事をいくら寫しても、讀者が讀むのに讀み苦しいばかりで何の價値もあるまいとおもふ。その六疊の特色を現はしさへすれば足りるとおもふ。ランプが薄暗かつたとか、亂雜になつて居つたとか言ふ事を、讀んでいかにも心に浮べ得られるやうに書けば足りる。畫でもさうだらう。西洋にもやはり畫家の方でさういふ議論も澤山あるし、日本の鳥羽僧正などの畫でも、別に些しも精細といふ點はないが、一寸點を打つても鴉に見え、一寸棒をくる/\と引つ張つてもそれが袖のやうに見える。それが又見るものの眼には非常に面白い。文章でもさうだ。鏡花などの作が人に印象を與へる事が深いといふのも矢張りかういふ點だらうとおもふ。一寸一刷毛でよいからその風景の中心になる部分を、すツと巧
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