るか、言葉をかえていえば、自然をどれだけ見得するか、そこに彼の人格が現われ彼の境涯が成り立つ、彼の句格が定まり彼の句品が出て来るのである。
 平常心是道、と趙州和尚は提唱した。総持古仏は、逢茶喫茶逢飯喫飯と喝破された。これは無論『山非山、水非水』を通しての『山是山、水是水』であるが、山は山でよろしい、水は水でよろしいのである。一茎草は一茎草であって、そしてそれは仏陀である。南無一茎草如来である。
 道は非凡を求むるところになくして、平凡を行ずることにある。漸々修学から一超直入が生れるのである。飛躍の母胎は沈潜である。
 所詮、句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない。
 道は前にある、まっすぐに行こう、まっすぐに行こう。
[#地付き](「三八九」第六集 昭和八年二月二十八日発行)



底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年7月10日第1刷発行
   2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「「三八九」第六集」
   1933(昭和8)年2月28日発行
入力:門田裕志
校正:仙
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