平老、春風春水、一時到!
新酒二合の元気で、街へ山へ。
酔はねばさびしいし、酔へばこまるし。
歩いてゐると、足がしぜんに山の方へ向く、私は本能的に山が好きだ。
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・遠山の雪のひかるや旅立つとする
・影も春めいた草鞋をはきかへる
・春がきてゐる土を掘る墓穴
これだけの質草はあつてうどんと酒
・みちはいつしか咲いてゐるものがちらほら
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三月九日[#「三月九日」に二重傍線]
春光うらゝかなり、陽はあたゝかく風はさむい。
けふも餅を焼いては食べた、まだ米はあるけれど。
風よふくな、鴉よなくな。
電燈屋さんが二人連れでやつてきたが、お気の毒様、庵には電燈もありません。
藪椿を活ける、水仙もよかつたが椿もよいな。
はじめて蛙を見た、蛙よ、うれしいか、とんでゐる。
やぶれかけた心臓が私に自然的節酒[#「自然的節酒」に傍点]ができるやうにしてくれました。
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風ふく日の餅がふくれあがり
・水田も春の目高なら泳いでゐる
・眼は見えないでも孫とは遊べるおばあさんの日なた
・もう春風の蛙がいつぴきとんできた
・夕ざれはひそかに一人を寝せてをく
・山から暮れておもたく背負うてもどる
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三月十日[#「三月十日」に二重傍線]
晴、なか/\冷たい、霜がふつてゐる。
あれやこれやと東上準備、なか/\忙しい。
また山の方へ。――
独酌二本、対酌三本、酒は味ふべし、たゞ/\味ふべし。
夕方、樹明君来庵、ハムと餅を持つて、――酒は買ひに行く、ハムはおいしかつた、餅はおいしいよりも腹をふくらす。……
樹明君おとなしく帰る、私は街へ出て歩く。
今夜は多少の性慾[#「多少の性慾」に傍点]を感じた、それがあたりまへだ、人間は人間でよろしい、枯木寒巌になつては詰らない。
おそくなつて帰庵、見ると机上に酒壱本と海苔一袋とが置いてある、T子さんに間違はない、だいぶ待つたらしい形跡がある、私も樹明君もゐなくて、かへつてよかつた、よかつた。
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・日かげりげそりと年をとり
・そこらに冬がのこつてゐる千両万両
・地つきほがらかな春がうたひます
・ゆふべはゆふべの鐘が鳴る山はおだやかで
・鴉があるいてゐる萠えだした草
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三月十一日[#「三月十一日」に二重傍線]
晴、晴、朝酒はよいかな、よいかな。
街へ、飲みすぎ食べすぎのたたりてきめん、身心がだるい、熱い溢れる湯にはいりたくなり湯田へ行かうかとも思つたが止めにして戻る。
水菜一把四株四銭也。
酒もある、肴もある、そして餅もある、其中一人春十分。
酒ぼいとう[#「酒ぼいとう」に傍点]! おもしろい方言ではないか。
疾病の福音、事々是好事。
花時風雨多し、春めいて花が咲きはじめる、曇が雨となり風となつた。
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・枯枝ひらふにもう芽ぶく木の夕あかり
・春の夜の街の湯の湧くところまで
・つゝましく大根煮る火のよう燃える
曇り日のひたきしきりに啼いて暮れる
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三月十二日[#「三月十二日」に二重傍線]
ぬくい雨、さう/″\しい風、ひとりしづかに読書。
記念写真帖について、大山君、瀧口君の友情こまやかなるにうたれた、私はその友情に値しない友人だ、省みて恥づかしかつた。
熱い湯にはいつて身を洗ひ心を洗つた。
待てども樹明来らず、私一人で飲んで食べて、そして寝た、そこへやつてきた樹明、そして私、何だか二人の気持がちぐはぐで、しつくりしなかつた。
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風のなか酔うて寝てゐる一人
・木の芽、いつもつながれてほえるほかない犬で
・つながれて寝てゐる犬へころげる木の実
・春風のはろかなるかな鉢の子を
・からりと晴れたる旅の法衣の腰からげ
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三月十三日[#「三月十三日」に二重傍線]
折々降るが、ぬくいので何よりだ。
思ひ立つて山口へゆく、椹野川風景もわるくない、桜冬木、白梅紅梅、枯葦、枯草、ことに川ぞひの旧道は自動車が通らないのがうれしい。
蕎麦は敦盛、味は義経――このビラには新味はないが効果はあらう。
温泉はよいなあ、千人風呂は現世浄土だ。
鰯の卯の花※[#「飮のへん+旨」、341−5][#「※[#「飮のへん+旨」、341−5]」に「マヽ」の注記]はうまかつた、一つ三銭、三つ食べた。
秤り炭二十銭、線香十銭、これが今日出山の目的の買物だつた。
定食二十銭の(これはたしかに安い)一杯機嫌で映画館にはいつた、何年ぶりのシネマ見物だらう、今日初めてトーキーを聴いたのだから、私もずゐぶん時代おくれだ。
ぬかるみを五里ぐらゐ歩いたらう、くたぶれた、帰庵したのは一時頃、それからお茶をわかして。……
手足多少の不自由、何だか、からだがもつれるやうな[#「からだがもつれるやうな」に傍点]。
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・生きてゐるもののあはれがぬかるみのなか
・いつも馬がつないである柳萠えはじめた
・猫柳どうにかかうにか暮らせるけれど
ぬくい雨でうつてもついても歩かない牛の仔で
・焼芋やいて暮らせて春めいた
・監獄の塀たか/″\と春の雨ふる
・病院の午後は紅梅の花さかり
・ずんぶりと湯のあつくてあふれる(湯田温泉)
・早春、ふけてもどればかすかな水音
・春めけば知らない小鳥のきておこす
・あたゝかい雨の、猿のたはむれ見てゐることも
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三月十四日[#「三月十四日」に二重傍線]
曇、白い小さいものがちら/\する。
老遍路さんがやつてきた、珍客々々。
身辺整理。
しづかに読書してゐると、若い女の足音がちかづいてきた、女人禁制ではないが、珍らしいなと思つてゐると、彼女はF屋のふうちやんだつた、近所まで掛取りにきたので、ちよつと寄つて見たのだといふ、到来の紅茶を御馳走した、紅茶はよかつたらう!
夕方、約の如く敬治君が一升さげて来てくれた、間もなく樹明君が牛肉をさげて来た、久しぶりに三人で飲む、そして例の如くとろ/\になり、街に出かけてどろ/\になつて戻つた。
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・雪ふりかゝる二人のなかのよいことは
・雪がふる人を見送る雪がふる
・この道しかない春の雪ふる
・ふる雪の、すぐ解ける雪のアスフアルトで
・かげもいつしよにあるく
・けふはこゝまでの草鞋をぬぐ
・椿咲きつづいて落ちつく
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三月十五日[#「三月十五日」に二重傍線]
雪が降りしきる、敬君を駅まで見送る、一杯やる、雪見酒といつてもよい。
酔うて労れてぐつすりと寝た。
夜は読書。
三月十六日[#「三月十六日」に二重傍線]
雪、しづかな雪であり、しずかな私だつた。
おとなしく新酒一本、それで沢山。
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・うれしいたよりもかなしいたよりも春の雪ふる
・けふも木を伐る音がしづかな山のいろ
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三月十七日[#「三月十七日」に二重傍線]
晴、風、春だ。
旅立つ用意をする。――
蓬摘む女の姿、春らしいな。
三月十八日[#「三月十八日」に二重傍線]
晴、今日からお彼岸。
なしたい事、なすべき事、なさずにはゐられない事。
早く旅立ちたい。――
樹明来、同道して散歩、そしていら/\どろ/\。
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春の水をさかのぼる
笑へば金歯が見える春風
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三月十九日[#「三月十九日」に二重傍線]
花ぐもりだ、身心倦怠。
T子さん来庵、愚痴と泣言とをこぼすために(それを聞く私は辛いかな)。
夜はしんみり読書。
三月二十日[#「三月二十日」に二重傍線]
倦怠、倦怠、春、春。
樹明君、そしてT子さんが来た、例によつて例の如し。
底本:「山頭火全集 第五巻」春陽堂書店
1986(昭和61)年11月30日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年1月15日作成
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