を忘れたほど、あはてゝいそいだ(これは禅坊主として完全に落第だ!)。
峠はよいかな、よいかな、昔の面影が十分に残つてゐる、松並木がよい、水音がよい、風もわるくない。……
風は吹いても寒くはなかつた、昼飯はヌキにして酒一杯と饅頭五つ、下手な両刀つかひだ!
厚狭まで歩いて、それから汽車で長府まで、そしてまた歩いて、黎々火居に地下足袋をぬいだ、君はまだ帰宅してゐない、日記をつけたり本を読んだりして待つ、黎々火居の第一印象はほんとによかつた、家も人も何もかも。
今日は何故だか労[#「労」に「マヽ」の注記]れた(六里強しか歩いてゐないのに)、老のおとろへもあらう、なまけ癖もあらう、出発がおくれたためもあらう、風がふくからでもあらう(風は孤独者には禁物だ)、待ちきれなくて、勧められるまゝに、ひとりで酒をいたゞき餅をいたゞく、酒もうまく餅もうまい、ありがたいありがたい。
やうやくにして黎君帰来、しんみり飲んで話しつゞける、酔うて労れて、ぐつすり寝る。……
返事をしない男[#「返事をしない男」に傍点]! 厚狭駅の待合室で、新聞を読んでゐる男に読まして下さいといつたら、彼は黙つてゐた、物をいふことが惜しいといつた風に!
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・食べもの食べつくし旅へでる春霜
・これから旅も春風のゆけるところまで
・春がきた水音のそれからそれへあるく
・梅もどき赤くて機嫌のよい頬白目白
・こゝからは長門の国の松葉ふる
・誰もゐない筧の水のあふれる落葉
・岩を白う岩から寒い水は走る
・こゝで泊らうどの家も餅がほしてある(改作)
春が来たぞな更けてレコードもをんなの肉声
追加二句
・灯つてまたたいてあれはをなごや
・春寒いをなごやのをんなが一銭持つて出てくれた
[#ここで字下げ終わり]
二月二十日[#「二月二十日」に二重傍線]
五時すぎにはもう起きた、お雑煮はいつでもおいしい、お辨当まで貰つて、いつしよに出立、朝ぐもりの寒さだ。
黎君は汽車で局へ出勤、私は海岸線を下関へ。
関門風景はよろしい、なつかしい、ゆつくりと歩く、ぼつり/\句もできる、おもひでの感慨多少。
長府はまことにおつとりとした遊園地だ、享楽場ではないが、とにかく、ブルヂヨアの土地だ、プロレタリヤの土地でもあるが。
下関へ着いたのは九時だつた、唐戸市場を見物[#「見物」に傍点]する、どうしても行乞気分になれない、あちこち歩きまはるだけ。
下関といふところは、何と食べ物の多いこと! 食べる人の多いこと!
かうして歩いてゐると、私といふ人間がどれだけ時代錯誤的であるかゞよく解る、世間と私との間にある距離を感じる、しかし、私の悩みはそこにはない、私の悩みは、なりきれない[#「なりきれない」に傍点]――何物にもその物になりきりえないところにある。
花屋さんがもう、菜の花[#「菜の花」に傍点]を売つてゐる、八百屋には蕗の薹[#「蕗の薹」に傍点]。
街の老楽師[#「街の老楽師」に傍点]! なんとみじめな。
午後、地橙孫居を訪ねて閑談二時間。
四時、唐戸から船で大里へ、大里から荒生田まで電車、公園の入口でひよつこり星城子君にでくわす、よかつた。
入浴、身心やゝかろし、酒、飯、話。……
同道して井上さんを訪ねる、また酒だ、シヤンもゐらつしやる。
酔うて戻つて熟睡、大鼾であたりをなやましたらしい。
井上さんがトンビを供養して下さつた、私にはよすぎるほどの品である、トンビはむろんあたゝかい、井上さんの人情と共に。
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トンビでもほしい夜のトンビをもらつて着てゐる
[#ここで字下げ終わり]
帰途の一句である。
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朝はつめたい煙草も分けてさようなら
・なか/\寒い朝から犬にほえられどうし
崖にそうてきて曲れば蘭竹二株の早春
・汽笛《フネ》とならんであるく早春の白波
昇る日は春の、はいつてくる船出てゆく船(関門風景)
日が出るとあたゝかい影がながう枯草に
早春のさゞなみが発電所の石垣に
・投げて下さつた一銭銅貨の寒い音だつた
春もまだ寒い街角で売る猪の肉で
きたない水がちろ/\と寒い波の中へ(御裳川)
そこらを船がいつたりきたり岩に注連をかざり(壇ノ浦)
・鴎が舞へば松四五本の春風(巌流島)
・あの娘《コ》がかあいさうでと日向はぬくいおばあさんたち
・春めいた風で牛肉豚肉馬肉鶏肉
・こんなに食べる物が食べる人々が
・みんな生きねばならない市場が寒うて
・背中流してくれる手がをさなうてぬくうて
星城子居即事
・冬木をくゞつて郵便やさんがうらから
・かけごゑかけてかつぎあげるは先祖代々の墓
・よい道がよい建物へ、焼場です
[#ここで字下げ終わり]
二月二十一日[#「二月二十一日」に二重傍線]
春光うらゝかである、満ち足りた気持である
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