悪い宿ではなかつた。
同宿の若い坑夫さんと山の観音様へ詣でた、一年一度のおせつたいがあるといふので、近村のおぢいさんおばあさんが孫を連れておほぜい詰めかけてゐた、山村風景のおもしろい一枚である。
夕飯は、さしみと豆腐汁と煮豆と茄子漬、なかなかの御馳走だつた、ことに前は造酒屋だから、飲みすごしたのも無理はなからう!
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・うらは山で墓が見えるかな/\
・かな/\ゆふ飯がおそい山の宿
・よい宿でどちらも山でまへは酒屋で
・宵月がみんなの顔にはだかばかりで
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行程二里、所得は銭六十二銭、米一升九合。
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八月三十一日[#「八月三十一日」に二重傍線]
早起して散歩した、同室者の人間臭にたへなかつたからである、人間の姿よりも山の姿がよろしい。
踏みだした一歩がもう山路である、石ころを踏みしめてすゝむ、桃の木といふ部落には特殊な色彩と音響とがあつた、こゝが大嶺無煙炭山である、ここで採掘した炭塊を索道で麦川へ送るのである。
西市へはかなり遠かつた、萩、女郎花、刈萱、白い花、赤い花が咲きみだれた道で、私の好きな道であつた。
途中行乞しなかつたが、三里を三時間かゝつて、十時から十一時まで西市行乞、行乞相はよくなかつたが、所得はよかつた、私は西市に頭を下げなければならない。
五時、田部の藤本屋といふ安宿に泊つた、よい意味で、また、わるい意味で、安宿の代表的なものであつた、この宿でも一室一燈一張の主人であることができた。
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今日の所得(銭――九十六銭、米――二[#「二」に「マヽ」の注記]十二銭)
今晩の御馳走(烏賊のさしみ、馬鈴薯の煮付、茄子漬瓜漬)
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今日の行程(麦川から西市まで三里、多くは山路)
西市から田部まで二里、多くは平地。
・朝の水音のかな/\
・はるかにかな/\の山の明けたいろ
・岩ばしる水をわたれば観世音立たせたまふ
・住めば住まれる掘立小屋も唐黍のうれてゐる
・ひよつこり家が花がある峠まがれば
大嶺炭坑索道
・炭車が空を山のみどりからみどりへ
萩に萩さき山蟻のゆきき
・坑口《マブ》から出てきてつまぐりの咲いてゐる家
・かるかや、そのなかのつりがねさう
・あすは二百十日の鴉がたたかうてゐる
・妻子に死なれ死を待つてゐる雑草の花
・秋暑いをんなだが乳房もあらはに
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九月壱日[#「九月壱日」に二重傍線]
晴、八朔、二百十日の厄日である、関東大震災十週年、何といふおだやかさ。
七時から十時まで岡枝及び田部行乞、それから歩む、小月は行乞しないで、清末のところ/″\を行乞する、疳癪がおきてしようがないから酒屋で一杯いたゞきたいといふたらお断り、カリウチは出来ませんといふ、それでは鉄鉢へ入れて貰ひましよう、酒の出したのがありません、といつたやうな問答、いよ/\疳の虫がおさまらない、やつと或る酒屋で一杯ひつかけると、すぐおさまつた、まことに酒は疳の妙薬でありまする。
ぶらりだらりと長府町へはいつて裏道を歩いてゐたら、ひよつこり黎々火君に出逢つた、偶然にしてはあまりに偶然すぎるが、訪ねてゆく途上で出逢ふたのはうれしい、さあ、ようこそと迎へられて、まず入浴、そして、つめたいうまい水を腹いつぱい飲むことは忘れなかつた。
かういふ家庭の雰囲気にひたると、家庭といふものがうらやましくなる。……
心づくしのかず/\の御馳走になる。
明月、涼風、籐椅子、レコード、物みなよろし。
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行乞所見
橋の名にもいろ/\あるが。――
夜長橋、月見橋、納涼橋などは風雅で、しかも嫌味がない、解り易くて要を得てゐる、日本の田舎の橋らしい名である。
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・山桐のかたまつて実となつてゐる
・この山里にも泊るところはあるかなかな
・制札にとんぼとまつてゐる西日
・こうろぎ、旅のからだをぽり/\と掻く
・日ざかりの石ころにとんぼがふたつ
・なんとすずしい松かげに誰もゐない
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行程四里。
所得、銭五十三銭と米一升六合。
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九月二日[#「九月二日」に二重傍線]
今日も好晴。
二人で朝の散歩。
おひるはまたお酒をいたゞいた、行乞米を貰つて下さつてお布施を下さつた、襦袢の手入、浴衣の洗濯、そして褌まで頂戴した、黎々火さんはほんとうによい肉縁の人々を持つてゐる、お父さんの温情、お母さんの慈愛、あゝ羨ましい。
二時お暇乞する、二人で下関へ出かけるのである、途中で沢田さんといふ方に招かれてちよつと話す、色紙に悪筆を揮ふ。
電車で下関へ着いたのは四時頃、茶碗、シヤボン、本、小刀、インキ等を買ふ、そして本町の馴染の宿へいつて荷物を預け、浴衣に着換
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