△いつのまにやら、歯がぬけてゐる、歯がぬけるといふことは寂しい、自分でぬかないのにぬけてゐたといふことはより寂しい。
昼寝、ぐう/\ごろ/\と眠りたいだけ眠つた、我儘すぎるかな。
裸木の訃がまた新らしく胸をついた。
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・一人となれば風鈴の鳴る
 白い花たゞ一りんの朝風のふく
 とりとめもなく考へてゐる日照雨
   改作一句
・ちかく、あまりにちかくつく/\ぼうし
[#ここで字下げ終わり]

 八月十九日[#「八月十九日」に二重傍線]

晴々として門外不出。

 八月二十日[#「八月二十日」に二重傍線]

早く起きたが、そして行乞するつもりだつたが、雨がふりだしたので安居。
しめやかな雨、しめやかな心。
先日来配達中止だつた新聞をまた配達して来てゐる、昨日は防長社の主人が来て、代金未払の歳事[#「事」に「マヽ」の注記]記を何とか彼とか口実をいつて取り戻していつた。
来者不拒、去者不追、有つてもよし、無くてもわるくない。
樹明君が何だかいら/\してやつてきた、一応帰つてまたきた、酒と下物とを小者に持たせて。
よい酒だつた、よい酔だつた、よいよいよいとなあ。――
[#ここから2字下げ]
・深夜の鏡にふか/″\と映つてゐる顔
 あれは青柿が落ちた夜の音
[#ここで字下げ終わり]

 八月二十一日[#「八月二十一日」に二重傍線]

草取、身辺整理。
藪蚊と油虫とが癪に障る。
早く晩飯をすまして、蚊帳の中で読書をしてゐるところへ樹明君が来て、井手逸郎さんの到着を知らしてくれる、私は駅前の宿屋まで出迎にいつたが、かけちがつて、逸郎さんはひとりでもう庵にきてゐられた。
酒も下物もすべてを樹明君が負担してくれた、いつもすまないと思ふが、さう思ふだけでどうにもならない。
三人で夜のふけるのも忘れて話しあつた、愉快な一夜だつた、送つて街へ出かける、まるし食堂でビールを飲んで別れる。
樹明君はいつしよに戻つて泊つた。
[#ここから2字下げ]
・朝焼うつくしいとかげの木のぼり
・泣く子泣かしておく青田風
   述懐一句
 がちや/\がちや/\生き残つてゐる
[#ここで字下げ終わり]

 八月廿二日[#「八月廿二日」に二重傍線]

晴、宿酔気分、焼酎一杯。
逸郎さんから見事な葡萄を一籠貰つたので、冬村君、呂竹さんへお裾分する。
△私の貧乏はよい貧乏[#「私の貧乏はよい貧乏」に傍点]だとしみ/″\思ふ、裸木さんの貧乏だつたことを聞くにつけても。
蛙の子がやたらにそこらあたりを飛びまはつてゐる。
すつかり無くなつた、――米も薪も、無論、銭も! 明日はどうでもかうでも行乞しなければならない。
夕方、学校の宿直室に樹明君を訪ねて暫らく話した、十一銭のお辨当を頂戴した、庵ほど御馳走のないところはないから、何を食べてもうまい。
どうも飲みすぎる食べすぎる、禁酒絶食はとても出来ないが、せめて節酒節食したい、しなければならない。
いかなる場合でもいかなる事物でも、過ぎたるは及ばざるに如かず、好物に対して殊に然り。
[#ここから2字下げ]
・あすのあさの水くんでおくかなかな
   (追加)本妙寺
・昇る陽を吸うてゐる南無妙法蓮華経
・秋がきた朝風の土に播いてゐる
・めつきり秋めいた風が法衣のほころび
・何となく考へてゐる犬も私も草のうへ
・夕立つや思ひつめてゐる
・夕立が洗つていつた茄子をもぐ
・夕立晴れたトマト畑に出て食べる
・夕立晴るゝや夕焼くる草の葉
・藁屋根はしづくする雑草はれ/″\
[#ここで字下げ終わり]

 八月廿三日[#「八月廿三日」に二重傍線]

今朝はすつかり秋だつた。
七時から嘉川在を行乞したが、何分にも心臓がわるくて気分がすぐれない、無理に二時間ばかり家から家へと歩いて、今日明日食べるだけのお米を頂戴して帰庵した。
曼珠沙華が一輪、路傍の叢に咲き出てゐた、折つて戻つて、机上に飾つてゐたら、油虫が食べてしまつた。
△死生から脱することは出来ないが、死生に囚はれないことは出来る、宗教的修行の意義はこゝにある。
△行乞してゐると、村の餓鬼君がホイトウホイトウといふ、いつぞや敬治居に泊つたとき、坊ちやんが、「おぢさんはホイトウかの」といつて私達を微苦笑させたが、ホイトウはおもしろいな!
午後、夕立があつた、落雷もあつたらしい。
[#ここから2字下げ]
・青田おだやかな風が尾花のゆるゝほど
・秋暑く何を考へてゐる
・こゝにも家が建てられつゝ秋日和
・何もかも虫干してある青田風
[#ここで字下げ終わり]

 八月廿四日[#「八月廿四日」に二重傍線]

秋、秋、秋寒く秋暑し、夜は秋にして昼は夏なり。
気分すぐれず、身心の倦怠いかんともしがたし、行乞もやめて終日独居、ぼんやりして一句もなし。
明日の糧は明日に任さう[#「明日の糧は明日に任さう」に傍点]。

 八月廿五日[#「八月廿五日」に二重傍線]

曇、風模様、二百十日前後らしい天候。
出勤途上、樹明君が立ち寄つて暫らく話す。
晴れてきた、おだやかなお天気となつた。
気分はすぐれないけれど、もう食べるものがなくなつたから、しようことなしに近在行乞、やうやく米一杯半と句四つ戴いた。
△昨日の御飯が少しばかり残つてゐたので昼飯をすます、少々ベソをかいてゐる、お茶漬にして食べる、ルンペンを通つてきたおかげで、何でもおいしくして腹をいためない。
△これから水がうまくなる、と今朝樹明君と話しあつたことである、むろん、酒はいよ/\ます/\うまくなる。
秋が来ると、私はいつも牧水の酒の歌をおもひださずにはゐられない。
こんばんの御飯はほんとうにおいしかつた、からだのぐあいもだいぶよくなつたやうだ、気持がうかないのは一杯やらないからだらう(二十二日、二十三日、二十四日、二十五日と四日間飲まな[#「飲まな」に傍点]い、いや飲めない[#「飲めない」に傍点])、機械も人間も同様で、油がきれたのだ、誰か来て油をさしてくれる人はないか、などゝアル中患者の愚痴を一言書き添へて置く。
昨日から待ちつゞけてゐる敬坊は今日も来なかつた、私は失望するよりも、何かあつたのではないかと心配する。
△行乞帰途、路傍に捨てゝあつた大根を拾うてきた、そして浅漬にして置いた、勿論、捨てゝあつたぐらゐだから牛の尻尾みたいな屑大根である、それでも私が作つたのよりもよく出来てゐる、私は不生産的な人間だから、せめて物を粗末にしないことによつて、それを少しでも償ひたいと努めてゐる、そしていつも物の冥加[#「物の冥加」に傍点]といふことを考へてゐる、生きてゐるよろこびを知るならば生かされてゐるありがたさを忘れてはならない。
それにつけても、その大根を拾ひあげるとき、私は何だかきまり[#「きまり」に傍点]が悪かつた、禅坊主らしくもない羞恥感である、古徳先聖の勝躅を再思三考せよ(巻煙草の吸殼を拾ふ場合は別である、それは恥ぢなければならない、恥づべき享楽のあらはれだから)。
△ありがたさがもつたいなさ[#「ありがたさがもつたいなさ」に傍点]となるとき、その人の宗教的情操は高揚したといつていゝ、彼はもののいのち[#「もののいのち」に傍点]にぴつたり触れたのだ。
[#ここから2字下げ]
・まへもうしろもつく/\ぼうしつく/\ぼうし
・胡瓜もをはりの一つで夕飯
・こうろぎよあすの米だけはある
・星がまたゝく山こえて踊大[#「大」に「マヽ」の注記]皷の澄んでくる
   改作二句追加
・酔ざめの水くみに出て草月夜かな
・家を持たない秋がふかうなるばかり
・昼もしづかな蠅が蠅たゝきを知つてゐる
・蠅たゝきを感じつゝ蠅が飛びまはる
   追加(昨年の句を改作して)
・雪ふりつもる法衣のおもくなりゆくを
・朝の鐘の谷から谷へ澄みわたるなり
 曇れば鴉鳴もかなしくて
 夕鴉鳴きかはしてはさびしうする
   追加
・濡れて涼しく晴れて涼しく山越える
・いつもひとりでながめる糸瓜ながうなる
・秋空へ屋根葺きあげてゆく
 はだかとなれば秋らしい風で
・水くんであほぐや雲は秋のいろ
[#ここで字下げ終わり]

 八月廿六日[#「八月廿六日」に二重傍線]

朝晩のすがすがしさ、けさのさわやかさ、身心快適。
つく/\ぼうしがいらだゝしく鳴く、その声が迫りくるやうにこたえる。
今日はどういふものか感傷的になつた、そして厭世的にさへなつた、私はセンチメンタリストではあつてもペシミストではない、しかし今日のやうな場合には、もし私が死ねる薬[#「死ねる薬」に傍点]を持つてゐたならば死んだかも知れない。
夢は悪夢だつた、恩愛の夢、執着の夢だつた、それは断ちがたい人間の絆であり軛であつた、人間としてあたりまへのもの[#「あたりまへのもの」に傍点]であつたけれど、私としては――かふいふ生活にはいりこんだ現在の私としては捨てなければならない夢だつた。
[#ここから2字下げ]
・いつしよにくりやへとびこんだは蛙の子
・ゆふざればトマト畑でトマトを味ふ
・さびしうなつてトマトをもぐや澄んだ空
・煙ひろがるゆふべの山はうごかない
[#ここで字下げ終わり]

 八月廿七日[#「八月廿七日」に二重傍線]

晴朗、新秋清涼の気天地に満つ、身辺整理、心境平安、澄んで沈むのか、沈んで澄むのか、とにかく落ちついた。
明日から福岡地方へ行乞に出かけるので、畑の手入をして置く、広島菜を一うね、時知らず大根を半うね播いて置く。
トマトはうまいな、いつ食べても、――会心の作が二句できた。
[#ここから2字下げ]
   油虫をうたふ二句
・虫も食べる物がない本を食べたか
・這うてきて虫がぢつと考へてゐる
[#ここで字下げ終わり]

 八月廿八日[#「八月廿八日」に二重傍線]

晴、早天、酔うて倒れこんできた樹明君はそのまゝにして出立。

 八月廿九日[#「八月廿九日」に二重傍線]
       『行乞記』
 九月三日[#「九月三日」に二重傍線]



底本:「山頭火全集 第五巻」春陽堂書店
   1986(昭和61)年11月30日第1刷発行
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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