むことが出来た、此新聞へは私は好感を持つてゐないけれど、それが熊本といふ観念を喚び起してなつかしかつた。
同宿は売卜師、日本を股にかけて歩きまはつてゐるだけに、また口で食つてるだけに、話題も豊富だし話方も上手だつた、八卦見! 何とクラシツクでそしてポピユラアだらう。
彼の話では、深切な巡査、情死娘と役所の小使爺、などが忘れられない。
彼もなまけもの[#「なまけもの」に傍点]だつた。
世間師は、あればあるやうに、なければないやうに、やつてゆくだけの技術を備へてゐる。
何といつても世の中で、高いのは酒、安いのは米。
今日は微苦笑寸劇にぶつかつた、――或る下駄店の前を戻るとき、安いのでぢつと見てゐると、店にゐた若いおかみさんが、さつそく御免とおつしやつた、違ひますよ、下駄を買はうかと思つてるんです、ずゐぶん気が早いですなといつてやつたら、赤い顔をして泣笑ひをした、――罪はないが快い出来事ぢやない。
夕食後、佐世保会館を訊ねて行く、若い店員に訊ねたら、頭の悪い男で、いふことがちつとも要領を得ない、そのために、だいぶ歩き損つた(気の毒だが、あの青年は落伍者にしかなりえまい)、会館は堂々たる建物だつた、ホールも気持がよかつた、支那事変傷痍軍人後援会主催、全国同盟新聞社、森永製菓株式会社後援、映画と講演の夕といふのである、ざつくばらんにいへば、後援と商売とを一挙両得しようといふ愛国運動である、I大佐の講演では少しばかり教へられた、軍事映画では大に考へさせられた、『日本人が一番日本人を知らない』といふ言葉は穿つてゐると思つた。
三月廿七日[#「三月廿七日」に二重傍線] 曇、終日臥床。
とう/\寝ついてしまつたのだ、実は一昨夜つい飲んだ焼酎が悪かつたらしい、そして昨日食べた豆腐があたつたらしい、夜中腹痛で苦しみつゞけた、今日は断食で水ばかり飲んで寝た、夕方から少しづゝよくなつてきた。
あまり健康だつたから、健康といふことを忘れてしまつてゐた、疾病は反省と精進とを齎らす。
旅で一人で病むのは罰と思ふ外ない。
[#ここから2字下げ]
・よろこびの旗をふる背なの児もふる(旗行列)
[#ここで字下げ終わり]
病めば必ず死を考へる、かういふ風にしてかういふ所で死んでは困ると思ふ、自他共に迷惑するばかりだから。
死! 冷たいものがスーツと身体を貫いた、寂しいやうな、恐ろしいやうな、何ともいへない冷たいものだ。
今日はさすがの私も飲まなかつた(飲んだのはアルコールでなくて水ばかりだつた)、飲みたくもなく、また飲めもしなかつた。
早く嬉野温泉に落ちつきたい、そして最少限度の要求に於て、最少範囲の情実に於て余生を送りたい。
三月廿八日[#「三月廿八日」に二重傍線] 曇后晴、病痾やゝ怠る、宿は同前、滞在。
午近くまで寝てゐたが、行乞坊主が行乞しないのは一種の堕落だと考へて、三時間ばかり市街行乞、今日一日の生存費だけ頂戴した、勿躰ないことである、壮健な男一匹が朝から晩まで働らき通して八十銭位しか与へられないではないか(日傭人足)、私は仏陀の慈蔭、衆生の恩恵に感謝せずにはゐられないのである(これを具体的にいへば袈裟のおかげである)。
今日は少しばかり飲んだ、昨日一日だけ飲まなかつたのが、一ヶ年間禁酒してゐたやうに感じた(いつぞや三日ばかり禁酒してゐた時はそんなに感じなかつたのに)、ほんたうに、酒好きの酒飲みは助からない、救はれない。
今日、行乞中、いたゞかなければならない一銭をいたゞかなかつた、そしていたゞいてはならない五十銭をいたゞかなかつた――行乞相はよかつたのである、与へられるだけ、与へられるまゝに受けるべき行乞でなければならない、行乞はほんたうにむづかしいと思ふ。
こゝには滞在しすぎた、シケたゝめでもある、病んだゝめでもある、しかしだらしなかつたゝめでもある、明朝は是非出立しよう。
夜に入つてからまた雨となつた、風さへ加はつた、雨は悪くないけれど、風には困る、雨は身心を内に籠らせる、風は身心を外へ向はしめる、風は法衣を吹きまくるやうに、私自身をも吹きまくる、旅人に風はあまりに淋しい。
今夜の同宿者はタケの三人連れ(タケとは尺八の事、随つて虚無僧の事)、何の彼のと喧嘩ばかりしてゐる、他の男は家出した息子を探してゐるといふ、こゝにも性の問題、血縁の問題がある、私は気の毒に思ふと同時にあさましく感じる。
独り住むほど寂しきはなくまた安らけきはない、そして私に於てはその安らかさが寂しさを償うて余りあり。……
[#ここから1字下げ、折り返して7字下げ]
三月廿九日[#「三月廿九日」に二重傍線] からりと晴れてゐる、まだ腹工合はよくないが、いよいよ出立した、停滞する勿れ、行程三里、相ノ浦、川添屋(三〇・中)
[#ここから3字下げ]
物乞ふとシクラメンのう
前へ
次へ
全38ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
種田 山頭火 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング