可もなし。
物にこだはるなかれ、無所得、無所有、飲まないで酔ふやうになれ。

 三月二日[#「三月二日」に二重傍線] 晴、曇、どうやら春ですね、行程二里、行乞六時間、久保田、まるいちや(三〇・中)

行乞相が日にましよくなるやうだ、主観的には然りといひきる、第三者に対しては知らない。
此地方で――どこでも――多いのは焼芋屋、そして鍼灸治療院。
いはゆる勝烏――天然保護物――が啼き飛ぶ、そこで一句。――
[#ここから2字下げ]
 頭上に啼きさわぐ鳥は勝烏《かちがらす》
・枯草につゝましくけふのおべんたう(追加)
[#ここで字下げ終わり]
今日は妙な事があつた、――或る家の前に立つと、奥から老妻君が出て来て、鉄鉢の中へ五十銭銀貨を二つ入れて、そしてまた奥へ去つてしまつた、極めて無造作に、――私は、行乞坊主としての私はハツとした、何か特殊な事情があると察したので懇ろに回向したが、後で考へて見ると、或は一銭銅貨と間違へたのではないかとも思ふ、若しさうであつたならば実に済まない事だつた、といつて今更引き返して事実を確めるのも変だ――行乞中、五十銭玉一つを頂戴することは時々ある、しかしそれが一つである場合には、間違ではないかと訊ねてからでなければ頂戴しない、実際さういふ間違も時々ある、だが、今日の場合は二つである、そして忙しい時でもなく暗い時でもない、すべてがハツキリしてゐる、私が疑はないで、特殊な事情のためだと直覚したことは、あながち無理ではあるまい、が、念のため 一応訊ねておいた方がよかつたとも考へられる、――とにかく、今となつては、稀有な喜捨として有難く受納する外はない、その一円を最も有効に利用するのが私の責務であらう。

[#ここから2字下げ]
□焼き棄てて日記の灰のこれだけか
[#ここから5字下げ]
菩薩清涼月 畢竟遊於空
[#ここから2字下げ]
□うららかにして風

[#ここから3字下げ]
勿忘草より
わすれぐさ
ちよいと一服やりましよか

カルモチンより
アルコール
ちよいと一杯やりましよか
[#ここで字下げ終わり]

 三月三日[#「三月三日」に二重傍線] 晴、春だ、行程わづかに一里、佐賀市、多久屋(二五・中)

もう野でも山でも、どこでも草をしいて一服するによいシーズンとなつた、そしてさういふ私の姿もまた風景の一点描としてふさはしいものになつた。
今日はあまり行乞しなかつた、留置の来信を受取つたら、もう何もしたくなくなつた、それほど私の心は友情によつてあたゝめられ、よわめられたのである。
或る友に、――どうやら本物の春が来たやうですね、お互にたつしやでうれしい事です、私は先日来ひきつゞいての雪中行乞で一皮脱ぐことが出来ましたので、歩いても行乞しても気分がだいぶラクになりました、云々。
緑平老の手紙は私を泣かせた、涙なしには読みきれない温情があふれてゐる、私は友として緑平老其他の人々を持つてゐることを不思議とも有難すぎるとも思ふ。
途中、或る農家でお茶をよばれたが、薩摩芋を強ゐられたには閉口した、あまり好きではないけれど、いや、むしろ嫌いな方だけれど、それは深切そのものなので、二切三切食べたが、胸がやけて困つた。
佐賀へは初めて来たが、市としては賑ふ方ぢやない、しかし第一印象は悪くなかつた。
湯屋の看板に『一浴心広体胖』、大盛うどん屋の立額に『はたらかざる人はくふべからず』。
昨夜はよい宿よい酒だつた、此宿もよくないとはいへないが、うるさくて、おち/\酒も飲めない。
同宿七人(例の二人連れの猿まはしさんとまた泊り合せた)、その中の遍路夫婦は小さい子供を四人も連れてゐる、無智と野卑と焦燥とを憐れまずにはゐられない。

 三月四日[#「三月四日」に二重傍線] 晴、市中行乞、滞在、宿は同前。

九時半から二時半まで第一流街を行乞した、行乞相は悪くなかつた、所得も悪くなかつた。
何となく疲労を感じる、緑平老の供養で一杯やつてから活動へ出かける、妻吉物語はよかつた、爆弾三勇士には涙が出た、頭が痛くなつた、帰つて床に就いてからも気分が悪かつた。
戦争――死――自然、私は戦争の原因よりも先づその悲惨にうたれる、私は私自身をかへりみて、私の生存を喜ぶよりも悲しむ念に堪へない。
此宿は便利のよい点では第一等だ、前は魚屋、隣は煙草屋、そして酒屋はついそこだ、しかも安くて良い酒だ、地獄と極楽とのチヤンポンだ。
一年中の好季節となつた、落ちついて働きたい!

 三月五日[#「三月五日」に二重傍線] すべて昨日のそれらとおなじ。

大隈公園といふのがあつた、そこは侯の生誕地だつた、気持のよい石碑が建てられてあつた、小松の植込もよかつた、どこからともなく花のかをり――丁字花らしいにほひがたゞようてゐた、三十年前早稲田在学中、侯の庭園で、侯等といつしよ
前へ 次へ
全38ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
種田 山頭火 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング