つた、この宿の水はよい、岩の中から湧いてくるのださうな。
先日来、御馳走責で腹工合が悪かつたが、アルコールをつゝしみ水を飲み、歩いたので、殆んどよくなつた、健康――肉体の丈夫なのが私には第一だ、まことに『からだ一つ』である、その一つを時々持て余すが。

 一月十六日[#「一月十六日」に二重傍線] 雨后晴、寒風、宿は同前(二五・中)

雨だ、風だ、といつてぢつとしてゐるほどの余裕はない、十時頃から前原町まで出かけて三時頃まで専念に行乞する、一風呂浴びて一杯ひつかける。
句稿を整理して井師へ送る、一年振の俳句ともいへる、送句ともいへる、とにかく井師の言のやうに、私は旅に出てゐなければ句は出来ないのかも知れない。
前原も田舎町だ、本通の新道は広々としてゐるけれど、自動車々庫がヤタラに多い、しかし今日の行乞相は上出来だつた、所得も悪くなかつた。
朝も夜も、面白い話ばかりだ、――女になつて子を生んだ夢の話、をとこ女の話、今は昔、米が四銭で酒が八銭の話。……
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・いつまで旅する爪をきる
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 一月十七日[#「一月十七日」に二重傍線] また雨、行程二里、深江、久保屋(二五・上)

世間師は晩飯を極楽飯、朝飯を地獄飯といふ、私も朝飯を食べた以上、安閑としてゐることは出来ない、合羽を着て笠を傾けて雨の中へ飛び出す、加布里、片山といふやうな部落を行乞して宿に着いたのは三時過ぎだつた、深江といふ浦町はさびしいけれど気に入つたところである、傾いた家並も、しんみりとしてゐる松原もよかつた、酒一合、燗をしてくれて九銭、大根漬の一片も添へてくれた。
此宿は新らしくて掃除も行き届いてゐる、気持よく滞在出来るのだが、憾むらくはゲルトがない(殊に同宿の煩はしさがないのがうれしい)。
私たちは『一日不作一日不食』でなくて『食べたら働かなければならない』である、今日の雨中行乞などは、まさにそれだ(働かなければ食へないのはホントウだ、働らいても食へないのはウソだ)。
よく降る雨だ、世間師泣かせの雨だ、しかし、雨の音はわるくない、ぢつと雨を聴いてゐると、しぜんに落ちついてくる、自他の長短が解りすぎるほど解る。
此宿はほんたうによい、部屋もよく夜具もよく賄もよい、これだけの待遇をして二十五銭とは、ほんたうによすぎる。
途中、浜窪といふ遊覧地を通つた、海と山とが程よく調和して、別荘や料理屋を建てさせてゐる、規模が小さいだけ、ちんまりと纒まつてゐる。
一坊寺といふ姓があつた、加布里《カムリ》といふ地名と共に珍らしいものである。
また不眠症にかゝつた、一時が鳴つても寝つかれない、しようことなしに、まとまらないで忘れかけてゐた句をまとめる。――
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・道が分れて梅が咲いてゐる
・沿うて下る枯葦の濁り江となり
   古風一句
 たゞにしぐれて柑子おちたるまゝならん(追想)
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 一月十八日[#「一月十八日」に二重傍線] 晴、行程四里(佐賀県)浜崎町、栄屋(二五・中)

霜、あたゝかい日だつた、九時から十一時まで深江行乞、それから、ところ/″\行乞しつゝ、ぶら/\歩く、やうやく肥前に入つた、宿についたのは五時前。
福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があつた、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然そのものに変りはないが、人心には思ひめぐらすものがある。
筑前の海岸は松原つゞきだ、今日も松原のうつくしさを味はつた、文字通りの白砂青松だ。
左は山、右は海、その一筋道を旅人は行く、動き易い心を恥ぢる。
松の切株に腰をかけて一服やつてゐると、女のボテフリがきて『お魚はいりませんか』深切か皮肉か、とにかく旅中の一興だ。
在国寺といふ姓、大入《ダイニウ》といふ地名、そして村の共同風呂もおもしろい。
此宿は悪くないけれど、うるさいところがある、新宿だけにフトンが軽くて軟かで暖かだつた(一枚しかくれないが)。
いつぞや途上で話し合つた若い大黒さんと同宿になつた、世の中は広いやうでも狭い、またどこかで出くわすことだらう、彼には愛すべきものが残つてゐる、彼は浪花節屋《フシヤ》なのだ、同宿者の需めに応じて一席どなつた、芸題はジゴマのお清!
一年ぶりに頭を剃つてさつぱりした、坊主にはやつぱり坊主頭がよい、床屋のおかみさんが、ほんたうに久しぶりに頭を剃りました、あなたの頭は剃りよいといつてくれた。
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・波音の県界を跨ぐ
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落つればおなじ谷川の水、水の流れるまゝに流れたまへ、かしこ。

 一月十九日[#「一月十九日」に二重傍線] 曇、行程二里、唐津市、梅屋(三〇・中)

午前中は浜崎町行乞、午後は虹の松原を散歩した、領巾振山は見たゞけで沢山らしかつた、情熱の彼女
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