密柑の里だ、あの甘酸つぱい匂ひは少年の夢そのものだ。
松原の、松のないところは月草がいちめんに咲いてゐた、月草は何と日本的のやさしさだらう。
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・ふるさとはみかんのはなのにほふとき
・若葉かげよい顔のお地蔵さま
 初夏の坊主頭で歩く
 歩くところ花の匂ふところ
    □
・コドモが泣いてハナが咲いてゐた
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 五月廿五日 廿六日[#「五月廿五日 廿六日」に二重傍線] 雨、風、晴、発熱休養、宿は同前。

とても動けないので、しようことなしに休養する、年はとりたくないものだ、としみ/″\思ふ。
終日終夜、寝そべつて、並べてある修養全集を片端から読みつゞける、それはあまりに講談社的だけれど。――
病んで三日間動けなかつたといふことが、私をして此地に安住の決心を固めさせた、世の中の事は、人生の事は何がどうなるか解るものぢやない、これもいはゆる因縁時節[#「因縁時節」に傍点]か。
嬉野と川棚とを比べて、前者は温泉に於て優り、後者は地形に於て申分がない、嬉野は視野が広すぎる、川棚は山裾に丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。
とにかく、私は死場所[#「死場所」に傍点]をこゝにこしらへよう。

 五月廿七日[#「五月廿七日」に二重傍線] 晴、行程七里、安岡町行乞、下関、岩国屋(三〇・中)

ぢつとしてはゐられないので出発する、宿料が足らないので袈裟を預けて置く、身心鈍重、やうやく夕暮の下関に着いた。
久しぶりに地橙孫君を訪ねて歓談する、君はいつも温かい人だ、逢ふたびに、人格が磨かれつゝあることを感じる。
夜更けてから馴染の宿に落ちつく、今夜は地橙孫君の供養によつて飲みすぎた、安価な自分が嫌になる。……

 五月廿八日[#「五月廿八日」に二重傍線] 晴、船と電車、酒と魚、八幡市、星城子居。

星城子君の歓待は恐縮するほどだつた、先日来の身心不調で、御馳走が食べられないで困つた、好きな酒さへ飲めなかつた、この罰あたりめ! と自分で自分を憫れんだ。
夜、いつしよに仙波さんを訪ねる、こゝでも懇ろにもてなされた、お布施までいたゞいた。
葉ざくら、葉ざくら、友のなさけが身にしみる。
工藤君からハガキをうけとつたのはうれしかつた、伊東君からも、国森君からも。
私は、私のやうなものが、こんなにしてもらつていゝのだらうか、と考へずにはゐられない。
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   門司埠頭凱旋兵
・生きて還つてきた空の飛行機低う
    □
・芭蕉二株青い雨(追加)
 星がまたたく草に寝る
    □
・かたい手を握りしめる
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 五月廿九日[#「五月廿九日」に二重傍線] 晴、電車と汽車で緑平居へ、葉ざくらの宿。

朝から四有三居を襲うて饗応を強要した。
緑平老はあまりに温かい、そつけないだけそれだけしんせつだ、友の中の友である。
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水を渡つて女買ひに行く(添加)
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夕方、連れ立つて散歩する、ボタ山のこゝそこから煙が出てゐる、湯が流れてくる、まるで火山の感じである、荒涼落漠の気にうたれる。
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・ボタ山へ月見草咲きつゞき
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 五月三十日[#「五月三十日」に二重傍線] 晴、行程五里、高津尾といふ山村、祝出屋(三〇・中)

早く起きて別れる、そして川棚へ急ぐ、労れて途中で泊る、この宿はほんたうにしづかだ、山の宿の空気を満喫する。
例の後援会の成績はあまり良くないけれど、それでも草庵だけは結べさうなので、いよ/\川棚温泉に落ちつくことになつた、緑平老の諒解を得たから、一日も早く土地を借りてバラツクを建てなければならない、フレイ、フレイ、サントウカ、バンザアイ!
近来とかく身心不調、酒も苦くなつた、――覚醒せずにはゐられない今が来たのである。
しつかり生きなければならない、嘘の多い、悔の断えない生き方にはもう堪へられなくなつた。
酒をつつしまなければならない、酒を飲む[#「飲む」に傍点]ことから酒を味ふ[#「味ふ」に傍点]方へ向はなければならない、ほんたうにうまい酒ありがたい酒[#「うまい酒ありがたい酒」に傍点]をいたゞかなければならないのである。
伊東君に手紙をだして、私の衷情を吐露しつゝ、お互に真実をつかまうと誓約した。
少し飲んでよく寝た。
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 山の家のラヂオこんがらがつたまゝ
・こゝにも畑があつて葱坊主(再録)
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五月三十一日[#「五月三十一日」に二重傍線] 曇が雨となり風となつた、小倉まで三里、下関から風雨の四里を吉見まで歩いた、関門通有のシケで、全身びしよぬれになつて、やつと宿についた、石風呂があるの
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