時間ばかり行乞、やうやく教へられた、そして大正十五年泊つたおぼえのある此宿を見つけて泊る、すぐ湯屋へゆく、酒屋へ寄る。……
相客は古参のお遍路さんだ、例の如く坑夫あがりらしい、いつも愚痴をいつてゐる、嫌な男だと思つたが、果して夕飯の時、焼酎を八本も呷つて(飲むのぢやない、注ぎ込むのだつた)不平を並べ初めた、あまりうるさいので、外へ出てぶら/\してゐるうちに、私自身もまたカフヱーみたいなところへはいつた、ビールを久しぶりに味ふ、その余勢が朝鮮女の家へまで連れていつた、前には五人の朝鮮淫売婦、彼女らがペチヤ/\朝鮮語をしやべるので私も負けずにブロークンイングリツシユをしやべる、そのためか、たゞしは一銭銅貨ばかりで払ふのに同情したからか、五十銭の菓子代を三十銭に負けてくれた、何と恥づかしい、可笑しい話ではないか。
アルコールのおかげで、隣室の不平寝言――彼は寝てまで不平をいつてゐる――のも気にかけないで、また夜中降りだした雨の音も知らないで、朝までぐつすり寝ることができた。
此宿はよい、待遇もよく賄もよく、安くて気楽だ、私が着いた時に足洗ひ水をとつてくれたり、相客の喧騒を避けさせるべく隣室に寝床をしいてくれた、老主人は昔、船頭として京浜地方まで泳ぎまはつたといふ苦労人だ、例の男の酔態に対しても平然として処置を誤まらない、しかし、蒲団だけは何といつてもよろしくない、私は酔うてゐなかつたらその臭気紛々でとても寝つかれなかつたらう、朝、眼が覚めると、飛び起きたほどだ。
酔漢が寝床に追ひやられた後で、鋳掛屋さんと話す、私が槍さびを唄つて彼が踊つた、ノンキすぎるけれど、かういふ旅では珍らしい逸興だつた、しかし興に乗りすぎて嚢中二十六銭しか残つてゐない、少し心細いね――嚢中自無銭!
十月十九日[#「十月十九日」に二重傍線] 曇、時々雨、行程五里、妻町、藤屋( [#「 」に「マヽ」の注記] )
因果歴然、歩きたうないが歩かなければならない、昨夜、飲み余したビールを持ち帰つてゐたので、まづそれを飲む、その勢で草鞋を穿く、昨日の自分を忘れるために、今日の糧を頂戴するために、そして妻局留置の郵便物を受取るために(酒のうまいやうに、友のたよりはなつかしい)。
妻まで五里の山路、大正十五年に一度踏んだ土である、あの時はもう二度とこの山も見ることはあるまいと思つたことであるが、命があつて縁があつてまた通るのである、途中、三名《サンミヤウ》、岩崎、平郡《ヘグリ》といふ部落町を行乞して、やつと今日の入費だけ戴いた、明日は雨らしいが、明日は明日の事、まだ/\何とかなるだけの余裕はある。
此宿はボクチンでなくてリヨカンであるが、賄も部屋も弟たり難く兄たり難しといつたところ、ただ宿の事を訊ねたのが機縁となつて、信心深い老夫妻のお世話になることになつたのである、彼等の温情はよく解る。
今夜は酒場まで出かけて新酒を一杯やつたゞけ(一合十三銭は酒がよいよりも高すぎる)、酒といへば焼酎しか飲めなかつた地方、そのイモシヨウチユウの桎梏から逃れたと思つたら、こんどは新酒の誘惑だ、早くアルコール揚棄の境地に到達しなければ嘘だ。
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行手けふも高い山が立つてゐる
白犬と黒犬と連れて仲のよいこと
山の水のうまさ虫はまだ鳴いてゐる
・父が掃けば母は焚いてゐる落葉
蔦を這はせてさりげなく生きてゐるか
駄菓子ちよつぴりながらつ[#「つ」に「マヽ」の注記]てゐる
あるだけの酒はよばれて別れたが
・豊年のよろこびの唄もなし
・米とするまでは手にある稲を扱ぐ
茄子を鰯に代へてみんなでうまがつてゐる
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留置郵便は端書、手紙、雑誌、合せて十一あつた、くりかへして読んで懐かしがつた、寸鶏頭君の文章は悲しかつた、悲しいよりも痛ましかつた、『痰壺のその顔へ吐いてやれ』といふ句や、母堂の不用意な言葉などは凄かつた、どうぞ彼が植えさせたチユーリツプの花を観て微笑することが出来るやうに。――
此宿はよい宿ではないけれど、木賃宿よりはさすがに、落ちついて静かである、殊に坊主枕はよかつた、小さい位は我慢する、あの茣蓙枕の殺風景は堪へられない。
隣室は右も左も賑やかだ、気取つた話、白粉臭い話、下らない話、――しかし私は閑寂を味うてゐる、ひとり考へひとり書いてゐる、友人へそれ/″\のたよりを書いてゐると、その人に逢つて話しかけるやうな気さへする、ひとり考へ、ひとり頷くのも面白い、屁を放《ヒ》つて可笑しくもない独り者といふ川柳があるが、その独り者は読書と思索とを知らなかつたのだらうと思ふ、――とにもかくにも一室一燈一人はありがたいことである。
夜は予期した通りの雨となつた、いかにも秋雨らしく降つてゐる、しかし明日はきつと霽れるだらう。
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