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種田山頭火

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)理解ある俳論[#「理解ある俳論」に傍点]
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 現時の俳壇に対して望ましい事は多々あるが、最も望ましい事の一つは理解ある俳論[#「理解ある俳論」に傍点]の出現である。かつて島村抱月氏は情理をつくした批評ということを説かれた。それとおなじ意味に於て、私は『情理をつくした俳論』を要望する。
 合しても離れても、また讃するにしても貶するにしても、すべてが理解の上に立っていなければならない。個々の心は或は傾向を異にし道程を異にするであろう。しかしながら、それらはすべて真実から出発していなければならない。
 評者の心は作者の心にまで分け入らなければならない。広い正しい心は毒舌や先入見や一時の感情を超絶する。つつましやかにしてしかも力強く、あたたかにしてしかも権威ある批判は、魂と魂、真実と真実とが接触するところから生まれる。私は人間本来の声――その声に根ざした俳論を熱求して居る。

 季題論が繰り返される毎に、私は一味の寂しさを感じないでは居られない。ただ季題という概念肯定のために――むしろ季題という言葉の存在のために、多くの論議が浪費されつつあるではないか。もしも季題というものが俳句の根本要素であるならば、季題研究は全然因襲的雰囲気から脱離して、更に更に根本的に取扱われなければならない。
 私は季題論を読むとき、季題[#「季題」に傍点]という言葉よりも自然[#「自然」に傍点]という言葉を使用する方がより多く妥当であり適切であると思う。

 俳句を止めるとか止めないとかいう人が時々ある。何という薄っぺらな心境であろう。止めようと思って止められるような俳句であるならば、止めまいと思うても止んでしまうような俳句であるならば、それはまことの詩[#「まことの詩」に傍点]ではない。止めるとか止めないとか、好きとか嫌いとかいうようなことを超越したところに、まことの詩としての俳句存在の理由がある。自我発現乃至価値創造の要求を離れて句作の意義はない。

 直接的表現を云々する態度は間接的態度[#「間接的態度」に傍点]である。現実味と真実味とを区分したり、人生味と自然味と優劣を争うたりする境地を脱していない。考うべき問題はもっと奥にある。
 第一義の問題をそのまま
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