は眼ざましいというよりも涙ぐましいものであった。
昭和七年九月二十日、私は其中庵の主となった。
私が探し求めていた其中庵は熊本にはなかった、嬉野にも川棚にもなかった。ふる郷のほとりの山裾にあった。茶の木をめぐらし、柿の木にかこまれ、木の葉が散りかけ、虫があつまり、百舌鳥が啼きかける廃屋にあった。
廃人、廃屋に入る。
それは最も自然で、最も相応しているではないか。水の流れるような推移ではないか。自然が、御仏が友人を通して指示する生活とはいえなかろうか。
今にして思えば、私は長く川棚には落ちつけなかったろう(幸雄兄の温情にここで改めてお礼を申しあげる)。川棚には温泉はあるけれど、ここのような閑寂がない。しめやかさがない。
私は山を愛する。高山名山には親しめないが、名もない山、見すぼらしい山を楽しむ。
ここは水に乏しいけれど、すこしのぼれば、雑草の中からしみじみと湧き出る泉がある。
私は雑木が好きだ。この頃の櫨《はぜ》の葉のうつくしさはどうだ。夜ふけて、そこはかとなく散る木の葉の音、おりおり思いだしたように落ちる木の実の音、それに聴き入るとき、私は御仏の声を感じる。
雨のふる日はよい。しぐれする夜のなごやかさは物臭な私に粥を煮させる。
風もわるくない。もう凩らしい風が吹いている。寝覚の一人をめぐって、風はどこから来てどこへ行くのか。さみしいといえば人間そのものがさみしいのだ。さみしがらせよとうたった詩人もあるではないか。私はさみしさがなくなることを求めない。むしろ、さみしいからこそ生きている、生きていられるのである。
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ふるさとはからたちの実となつてゐる
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そのからたちの実に、私は私を観る。そして私の生活を考える。
雨ふるふるさとはなつかしい。はだしであるいていると、蹠《あしうら》の感触が少年の夢をよびかえす。そこに白髪の感傷家がさまようているとは。――
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あめふるふるさとははだしであるく
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最後に私は、川棚で出来た句『花いばら、ここの土とならうよ』の花いばらを茶の花におきかえなければならなくなったことを書き添えよう。そして、もう一句、最も新らしい一句を書き添えなければなるまい。
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住みなれて茶の花のひらいては散る
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