者の前者よりも自由なるがために非ずや。彼には桎梏あり、此にはこれなきがために非ずや。何が故に慈善に狂するよりも、佳人と携へて名手の楽を聴くが、本能の満足に適へりや。彼には束縛あり。此には自由あるがために非ずや。
然らば高山君は何等の根拠に基きて、かゝる自由の本能の満足を以て美的生活[#「美的生活」に傍点]と呼べるか。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]は以為らく。余に向ては余が美しと思惟し能ふものゝみ美なり。余が官能に媚び余が自我心に服従するものゝみ美なり。世間一般の煩瑣なる芸術の法則の如き、余に於て何かあらむと。
高山君の本能の満足を以て、美的生活[#「美的生活」に白丸傍点]と呼べる所以は、ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]がこの語を知らざるものゝ解すること能はざる所ならむ。
高山君は、何が故に戮力《りくりよく》を要して成れる道徳を以て虚偽なりとなし、悪心あるものとなせるか。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の悪心説[#「悪心説」に白丸傍点](das schlechte Gewissen)を知らざるものは、またこの意義を解することを得じ。(拙著ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]と二詩人参照)
高山君は、智識道徳を以て相対的価値あるものとなし、本能を以て絶対的価値を有するものとなせり。ニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の所謂「世に真なるものなし[#「世に真なるものなし」に傍点]、一切のもの凡べて許さる[#「一切のもの凡べて許さる」に傍点]」の警語は、明かに同様の意義を表するものに非ずや。
高山君の論を読むものは、またその論のニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の夫れと同じく、詩人の世を憤る声[#「詩人の世を憤る声」に白丸傍点]なるを忘るべからず。
吾等は「美的生活論」を読みて、徹頭徹尾賛同の意を表するものなり。今日の世は実に科学万能の世なり、智識全権の世なり、倫理教育全盛の時代なり、而して人間固有の本能殊に自由なる本能を蔑視する時代なり。かゝる世に向て「美的生活論」を標榜し、大に人生本能の発達満足を説く。豈に偉ならずや。
読売新聞の長谷川天渓君が、「美的生活論」に対する批評は、要するに高山君のニイチエ[#「ニイチエ」に傍線]の説に私淑する所あるを知らざりしが為に、起れる幾多の誤解あるが如し。その本能の意義を疑へる、智識道徳の相対的価値を難ぜる、一に唯、以上の根拠を知らざりしに基く。
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
登張 竹風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング