伴奏とする日本の好色は、ヰッテンベルグ・プラッツの辺で吾々を擁する夜鷹の群と――ブラインドをおろした密室で裸踊りのはてに行はれるといふ現代欧羅巴の好色と――何といふ甚しい懸絶であらう。私は三千里の外にゐて日本流の絃歌に対するあこがれに堪へなかつた。さうして遂に、日本にゐる遊仲間と、彼と共に子供の時分から御座敷で逢ひ馴れてゐる歌妓とに、葉書を書くといふ誘惑に打勝つことが出来なかつた。

     3

 ミュンヒェンは私の未見の「師」リップスが、その生涯の最後の二十年を送つたなつかしい土地である。彼の遺族を其処にたづねて、彼に対する死後の感謝を致すことは、日本を発つときからの私の念願であつた。千九百二十三年の春、私は遺族の消息をたづねるために、故人の弟子で当時其処の大学の員外教授をしてゐたモーリッツ・ガイガーとの文通を始めた。さうして伊太利から独逸への帰途、六月一日から九日までミュンヒェンに滞在してゐるうち、殆んど毎日この人と逢つてゐた。音楽美学に関する一二の論文を書いた若い美学者フーバーとも其処で面識が出来た。
 フーバーは日本の音楽をききたいと云つてゐた。私も亦彼にこれを聴かせてその批評をきいて見たいと思つたが、遂にその機会を得なかつた。ガイガーはアメリカの伯父を訪問したとき、其処で日本の総理大臣T氏の令嬢に日本の音楽をきかせて貰つたと云つてゐた。その時彼の受けた印象はどうであつたか。彼は Kolossal klagend(極めて歎きの深い)といふ要領を得た二語にその印象を要約した。吾々の音楽の溜息と深い歎きとは、教養ある欧羅巴人の魂にも亦直ちに通ずるところがあるのである。
 日本の音楽が必ずしも吾々の間にのみ通ずる地方的音楽でないことを発見したのは、私の深い喜びであつた。

     4

 千九百二十三年九月、東京の大震災の後十日、未だ何の消息もない家族の運命に対する不安を抱きながら、私は加茂丸といふ小さい客船に乗つてマルセーユから帰国の途に就いた。当時日本に対するセンティメンタルな愛が極めて昂進してゐた私も、多くの日本人の顔を見ると一寸不思議を感ずるぐらゐに欧羅巴化してゐた。さればと云つて東洋行の英吉利人の中には、欧羅巴人の顔の美しさを代表するやうな男女がゐるわけもなかつた。同船の英吉利人は、往航の場合と等しく復航にも亦私の心を暗くした。この航海に於いて割合
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