客をあとから急いで追ふやうにして、「ではお休みなさいまし」
「さやうなら――」
 扉は外からしめられて、把手《ハンドル》の手のぐるりと廻る気勢《きせい》がしたが、廊下を伝つて階段の方へと下りて行く跫声が暫しの間きこえて、そしてあとはしんとなつた。Bはまた溜息をついた。
 かれはあたりを見廻すやうにした。やつとその時が来た! やつとその時がやつて来た! かれはかう心の中に囁いた。体がわく/\した。
「もう、大丈夫だ。誰も来る筈はない――」かう口に出して云つたが、しかもすぐ起ち上らうとはせずに――わく/\する心をぢつと押へるやうに、体を安楽椅子に深く凭《よ》せて、そこにあるロシア煙草を一本取つてマツチを摩《す》つた。煙《けぶり》がすうと立つた。
 それにしても、かれは何んなにこの時の来るのを待つたらう。何んなにこの遠い土地に向つて憧憬《あこが》れたらう。此処に来るといふあてがなければ――その遠いハルピンに行けばあの時子《ときこ》に逢へるといふ人知れぬ秘密の希望を持つてゐなければ、Bは決して今度の満韓旅行を承諾しなかつたに相違なかつた。たとへ、何んなに本社で歓迎して呉れると言つても、又理事級の人達のみが貰ふやうな高い旅費を呉れて、大切なお客様として随行員をつけて何処でも自動車で案内させると言つても、かれは決してそれを承諾しなかつたに相違なかつた。実はかれはかの女あるがために――あきも飽かれもせずに別れたかの女がハルピンにあるがためにのみ重い体を起して今度の旅行に上《のぼ》つて来たのであつた。赤ちやけた殺風景な山巒《さんらん》、寒い荒凉とした曠野、汚ない不潔な支那人の生活、不味《まづ》いしつこい支那料理、時には何うしてこんな不愉快な塞外《さいぐわい》の地にやつて来たらうと思ふやうなことも度々《たび/\》あつたが、しかしいつかは一度ハルピンに行つてかの女に逢へるといふことのためにのみ慰められて努力してやつて来たのであつた。Bは満韓の到るところをかの女と一緒に歩いたことを繰返した。何処に行つてもかれの身辺に、心に、かの女がついて廻つて歩いて行つてゐたことを繰返した。あるところでは、かの女に逢ふことのために勧められた美しい女を謝絶したことを繰返した。「先生は存外堅いんですね。僕は先生はさういふ方だとは思はなかつた。もつと解けた、色つぽい方だと思つてゐた。人といふものは見かけによら
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