―」女中はかう言たが、そのまゝ徐かに扉《ドア》を閉めて出て行つて了つた。
「それでも痩せたね?」
「さうですか――かういふ気風ですから、別に苦労もしないんですけれども……。あの時分は肥つてゐましたもの……」
「病気をしたんぢやないか」
「来た時に、一度わづらひましたけれども、それからずつと丈夫で暮してゐますの……。どつちかと言へば、土地が異《ちが》つても別に何ともない方ですの――」
「面白いことがあるかね」
「別に面白いつていふこともありませんけれどもね。でも生きてゐさへすれば、もう一生お目にはかゝれまいと思つた貴方にも逢へるんですから……。それを思ふと、矢張り生きてゐる方が好いんですね。でもよく来て下すつたのね。私、本当にお礼を申上げるわ……」
「だつて、そのために、お前に逢ひたいばかりに、かうして話が出来なくつても好い、一目でも好い、さう思へばこそ、こんな満洲のやうな赤ちやけた殺風景な山や野ばかりあるところにやつて来たんだもの……。でも、今夜は帰らなくつてはならないんだらう?」
「好いんですとも、帰らなくつたつて――」時子はこんなことを言つて笑つた。二人の間にはいつかさつきの重苦しい感じは過ぎ去つて了つてゐた。否、いつの間にか時も過ぎて、卓《テーブル》の上の時計の針は既に十一時に近いところをさしてゐた。それにしても、何といふ恋のパラダイスだらう。ホテルの三階の一室は、今夜に限つて、深夜の闇の中にくつきりとその明るい窓を際立たせてゐた。空には星が燦爛として輝いた。



底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日発行
初出:「現代 第六巻第一号」実業之日本社
   1925(大正14)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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