ら笑つた。
「フランス人なんかその点に行くと親切なもんださうですよ。美しい女のことなら何んな世話でもしてやるさうですから――。日本人だつて何方《どちら》かと言へば、女に親切な方ですからな」言ひかけてBも笑つて、「それで遠いんですか?」
「行くところですか。それはそんなに遠くもありませんがね? ……兎に角、誰か迎へに来てゐて呉れる方が好いですな」
埠頭まではもはやそこからいくらもなかつた。汽船の速力も次第に緩く、岸には赤煉瓦の建物や倉庫らしいものも見え出して来て、縫ふやうに縁《へり》に並んで生えてゐる楊柳《やうりう》の緑についさつきから吹き出した蒙古風《もうこかぜ》がすさまじく黄《きいろ》い埃塵《ほこり》を吹きつけてゐるのを眼にした。船や、ヂヤンクや、小蒸汽や――たうとうB達の船はその埠頭に横附けにされた。
そこには自動車や、車や、荷車や、迎へに出てゐる人達があたり一杯に混雑《ごた/″\》と巴渦を巻いてゐて、踏板を此方《こつち》から渡すと同時に、三等の方の人達は大きな包を抱へて先を争つて急いで出て行くのであつた。舷側に添つたところには、H夫妻も徳子も皆な鞄や手提を持つて出てゐた。
H氏はBに言つた。
「今日は天津にお泊りですか?」
「一|夜《や》泊つて行かうと思ひます。貴方《あなた》は?」
「何うしようかと思つてゐます……。都合に由《よ》つて北京に行きたいと思つてをりますけれども――」
しかもそはそはしたB達はそれ以上言葉を交す暇《いとま》を持つてゐなかつた。その行くべき方《はう》へと各自に行かなければならなかつた。Bは船長や船員達の世話になつて、其処《そこ》に迎へに来てゐるTホテルの自動車へと乗ることにした。で、少し此方《こつち》に来てそれとなしに振返つて見た時には、Kが徳子を介抱して頻りに苦力の車に乗せてゐるのを眼にした。
やがてBはすさまじい蒙古風が屋根に当り四辻に吼え※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダに渦《うづま》くのを見た。街路樹の楊柳が枝も幹も地につくまでにたわわに振り動かされてゐるのを見た。黄い埃塵が北国《ほくこく》の冬の吹雪のやうに堅く閉《とざ》したホテルの硝子窓の内までザラザラと吹き込んで来るのを見た。次第に空も晦《くら》く、日の光もおぼろに、ホテルの廊下などでは、電灯のスヰツチをひねらなければならないほどそれほどあたりが暗くなつて行くのを見た。蒸暑くても窓を明けることは出来ず、その硝子窓の外に並べて置かれてある大きな鉢植ゑの万年青《おもと》の葉が埃塵で真白になつてゐるのを見た。
何処でもBはひとりではなかつた。かの女は片時もBから離れてはゐなかつた。Bは到るところにかの女を置いた。それにしても此処にやつて来てこれを見たら何う思ふだらう? この蒙古風に逢つたら何と言つたらう? あの眉を蹙めるだらう。埃塵に白くなるあの髪を佗しがるだらう。肌の中までザラザラするのを気持わるがるだらう。しかしそれをも我慢するだらう。何故《なぜ》といふのに、それは旅だから。かの女もこの身も倶《とも》に好きな旅だから――。
天津で友達に招かれた料理屋は大きな室《へや》の中に小さな室が幾つも幾つもあるやうな家《うち》であつた。そこでBはBの前に坐つた年増の妓《こ》に、「矢張、女だつて同じことですよ。一つづゝ心をつかんでゐなければ安心して生きてゐられないのですよ。だから矢張|終《つひ》にはそこに落ちて行くのですな――」などと言つた。
あくる日もそのすさまじい蒙古風は止まなかつた。Bは少しばかりあつた用事をすまして、午後の三時の汽車で北京へと行つたが、生憎《あひにく》その日は日本人はひとりも乗つてゐず、それに例の臨城《りんじやう》事件が昨夜《ゆうべ》あつたばかりなので、一層さびしいさびしい旅を続けなければならなかつた。Bは唯黙つて荒漠とした野《の》を見た。行つても行つても村落らしい村落はなく、暗い鼠色の空にすさまじく埃塵の漲《みなぎ》りわたつてゐる広い広い地平線を見た。停車場《ていしやぢやう》と言つても、ほんの小さな建物があるばかりで、町らしい形を成してゐる部落などは何処まで行つても眼に入つては来なかつた。をりをり唯遠くの楊柳の枝のたわわに風に吹かれてゐるのが見えるばかりであつた。
(こんなところに一国の首都たる北京があるのかしら? 不思議な気がするなア)かう何遍もBは腹の中で思つた。やがて薄暮に近く、次第にその北京はあらはれ出して来た。暗い城壁を取廻した大妖怪か何かのやうに――。
「おや! H夫妻は矢張此処に泊つてゐるな」
Bは室に入るとすぐかう独語した。
Bはその窓の下のところで、例のドイツ種の大きな犬が頻りに悲鳴を挙げてゐるのを聞いた。かれは何方《どちら》かと言へば狭い一室の卓《テイブル》の傍《かたはら》にある椅子に腰を下《おろ》して、さう大した明るいとは言へない光線の下《もと》に、寝床《ベツト》の上に敷かれた白いシイトや、鞄などの置くやうになつてゐる棚などの静かに照されてゐるのを見廻した。かれは何とも言へないさびしさのひしと身を襲つて来るのを感じた。しかもそれは旅情と言つたやうなものではなかつた。Bは身につまされたといふやうな心持で、かうした蒙古風の吹き荒《すさ》んでゐる塞外《そくぐわい》の地に入つて行くH夫妻に同情した。(でも若い二人だから好い……。何んな困難でも二人で切抜けて行かうといふのだから好い――)かう独語したBは、T氏の言つた言葉などをも思ひ出さずにはゐられなかつた。
そのあくる日であつたか、北京の宮殿の見物からBが戻つて来ると、そこにこれから外出しようとしてゐるH夫妻がゐて、「おや! あなたも此方《こちら》でしたかな?」などと声をかけられた。ドイツ種の大きな犬は、盛装した夫人の周囲を頻りにぐるぐると廻つてゐた。そして時々大きな声を立てゝ吼えた。
「こら、こら! ヂヤツク!」かうH夫人はやさしく制した。
「中々好いですね。奥さんが伴れてあるくと、よく調和しますよ」
こんなことをBが言ふと、
「左様で御座いますか。……」かう夫人は言つて顔を赧《あか》くして、「それでも、役には立ちますので御座いますよ……。今日も午前に万寿山《まんじゆやま》で、あそこの乞食をこれが退撃《たいげき》して呉れましてね。大変に助かりました――」
「そんなに乞食が多う御座んすか?」
「え、え、あそこは――。汚ない恰好《かつかう》をして近くへ寄つて来るので御座いますもの――」
「あゝいふ時には、かういふ奴は役に立ちますよ」
「さうでせうな……」かう言つたBはすぐ言葉を続いで、「それで、まだお立ちにはならないのですか?」
「いや、もう行かなければならないのですけれども、丁度、今、節《せつ》がわるくて、馬車が御座いませんものですから……」
「此方《こちら》からいつでも馬車を仕立てゝ行けるのではないんですか?」
「北京にゐる奴《やつ》は、何うも行くのをいやがりましてな。何しろ遠いんですから。向うから来てゐる奴《もの》でないと、何うしても行かうとは言はないんです?」
「それは大変ですな……。それにしても、その赤峰といふところまで一体幾日かゝるんです?」
「さうですな……。路がわるいですから、内地のやうなわけには行きませんから。里程はそんなにないですけれども、百里足らずですけれども、十二三日は何うしてもかゝりませうね――」
「大変ですな――。それにしても、赤峰といふところは、錦州《きんしう》からも行けるやうにきいてゐますが、あつちの方が近くはないのでせうか?」
「あつちの方がいくらか近いですけれども、馬車が北京よりももつと乏しいさうですから」
「さうですかな。何にしても大変ですな。あなたはまア好いとしても、奥さんが大変ですな」
「え……」
それだけで別れてBは二階の方へと行つた。Bはそれからあちこちと見物した。万寿山へも行けば、万里《ばんり》の長城《ちやうじやう》へも行つた。梅蘭芳《メイランフワン》の劇をも見れば琉璃廠《るりしやう》の狭斜へも行つた。Bは北京に三|夜《や》泊つた。かれがそこを立つて奉天《ほうてん》の方へ来る時にも、H夫妻はまだその旅舎《りよしや》の一室に滞留してゐた。
しかもそのH夫妻が例の轎車《けうしや》に乗つて、蒙古風のすさまじく吹き荒む中を、遮るものとてもない曠野の中を、小さな集落があつたりさびしい町があつたりする中を、埃塵に包まれてガタガタと進んで行くさまは、はつきりと絵になつてBの眼の前に描き出された。Bは古い駅舎の※[#「火+亢」、第4水準2−79−62]《かう》の上に毛布を敷いて夜ごとに佗しく寝るH夫妻を想像した。一輌の轎車の覚束なく塞外の地へと一歩々々動いて行くさまを想像した。またあのドイツ種《しゆ》の大きな犬が絶えずその若い美しい夫人を護衛して進んで行つてゐるさまを想像した。
底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「婦人公論 第九年第九号」中央公論社
1924(大正13)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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