鞄をかつがせて、それを先に立てて、あとから並んで歩いて行つた。アカシヤの花の匂ひが茫とした黎明《れいめい》の空気に著るしく漲《みなぎ》り渡つた。
あとから歩きながら、
「わるくないね、君」
「さうですな…………」妻子を国に置いて本社の独身|者《もの》の寮舎に起臥してゐるBは、いくらか皮肉な調子で、「一晩中あの女は起きてゐましたよ。幾度目を覚まして見ても、あの女の白い顔が見えてゐました。先生眠いでせう! 宿について、湯に入つて、ぐつすり旦那さんと一寝入り――本当にわるくありませんね?」
「本当に羨しいわけだね…………」
私達はいくらか疲れたやうな、人なつかしいやうな、またかうした時に傍《はた》に自由になる美しい髪でもあつたなら、それこそ何んなに好いだらうといふやうな気持に微かに体を揺《ゆす》ぶられながら、徐かにレエルを此方《こつち》から向うへとわたつて行つた。黎明と言つてもまだほんのしらしら明けで、草木も野も山も総て全く眠りから覚めてはゐないやうに見えた。しんとしたアカシヤの緑葉の並木の中には、狭いレエルを持つた一条《ひとすぢ》の連頭路が真直《まつすぐ》に真直に続いてゐるのが見わたされた。
それでも汽車に馭してゐる温泉行きの軌道車は、驢馬を二疋つけて、既に十分に支度を整へてそこに待つてゐた。私達は今度は互ひに膝と膝とを触れ合はせて坐らなければならないやうな形になつた。で、私とその女とが向き合つた。Bとその背高い男とが斜に顔を合はせるやうになつた。
馭者がその背に鞭を当てると、二頭の驢馬は、その小さな耳を聳《そば》だゝせながら、いくらか下《くだ》り加減な真直な道を驀地に走つた。アカシヤの並木は並木に続き、野は野に続き、その向うに歪子山《わいしざん》といふ不思議な形をした岩山に霧のかゝつて行くのが見えた。私達は何も話さなかつた。唯黙つてアカシアの花の咽《むせ》ぶやうに匂つて来るのを嗅いだ。
温泉ホテルは、しんとして全く緑葉の中に埋め尽されたかのやうにその屋根やら※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ランダやらを微かに見せてゐた。此処までやつて来ても、まだ朝日の昇るのには間があるほどそれほど朝は早かつた。でも、幸ひなことには、本社の人達が昨夜《ゆふべ》私達のために電報を打つて置いて呉れたので、上《かみ》さんも女中も起きてゐて呉れて、すぐ私達を奥の一室へと案内した。
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