知らなかつたが、其面附きだけは、種々の草双紙の画面に依つて、名古屋の姉婿や叔父、叔母以上によく覚え込んでゐたのであつた。
 演劇に関する知識は、主として名古屋へ移つてから得たのであるが、謡曲は父や兄が口ずさむので、多少耳に染みてゐた上に、八九歳の頃、教課の一部として、強迫的に課せられて、ほんの小謡ひの幾番と「猩々」、「橋弁慶」位ゐを習つた。兄が師匠番である。それも度々《たびたび》読んだ書の一種かと思ふ。ところが、此謡ひといふものが、いやで/\たまらず、おまけに不器用で、覚えないと、手ひどく叱られる。細い鞭で見台の端をピシリ/\とやられるたびに慄へあがつたことは今に忘れない。其お庇か、「猩々」の文句一二ヶ所は今でも微かに節をおぼえてゐるからをかしい。無論、その後は曾て習つたことは無いのだが。
 以上話した外には、其頃読んだ本で、自然に思ひだされるのは先づ無い。しかも此貧しい/\幼児の読書が、要するに、今の私の全き知識の萌芽でもあり、全き仕事の符号《シンボル》でもある。其後四十余年間、依然たる読書嫌ひであつたに拘らず、時と場合によつては、拠ろなく何くれとなく一通りは内外の書物を読んだものゝ
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坪内 逍遥 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング