先生」
「逃げはせんよ、なにも君と鬼ごっこをしているわけじゃない……」
「じゃ、先生、説明をしてくださいますわね」
「いいとも……真心が第一だが、真心だけではいかん。真心はたいせつだが、真心さえあれば、なんでもとおるというのなら、世の中は甘いもんだ。新婚早々の夫婦なら、恋女房の炊いたごはんが、シンだらけでも嬉《うれ》しいだろう。恋女房のつくったビフテキが、たとえわらじ[#「わらじ」に傍点]のようでも、ありがたいだろう。
 だが、新婚夫婦はいささかのぼせあがっている。真心とか、親切とかいうものは、のぼせあがったものではない。もっと冷静でなくてはいかん。ほんとうの真心があって、しかもその真心が形にあらわれたとき、はじめて真心は見えるのだ、思っているだけではダメだ。思っていても見えぬ。それをあらわさねばならぬ。見せねばならぬ。筆にも、口にも、つくされ申さず候――というのは逃げ口上だ。筆にも、口にも、つくさねばならぬ。いくら思っていても、腹はふくれぬ。思っていることを、どんどん表現することができねばならぬ。真心があればできるはずだ。いや、やらねばいられなくなるはずだ。それは方法だ、工夫だ」
「分りました。たとえば、どんなことでしょうか」
「いよいよ、君の聞きたいところへ追い込んできたね、ハハハ」
「早く聞きたいものですわ」
「では、話そう。日本には今から少し前にお女郎というものがいた」
「先生、お女郎の話じゃありません。料理の話です」
「待て、待て、ここからいわねば分らん。お女郎はたいへん上手だ、なにが上手か分るか」
「分ります。それが料理とどんな関係があるでしょうか」
「たとえば……だ。そう、いやな顔をせずに聞きなさい。女房は下手だが、お女郎は上手だ。客の喜ぶところを知っておる、だが、これは形だけのものである場合が多い。つまり、商売人だ。料理屋の料理もそうだ、客の好むところを知っておる。そのかわりあとで、金をとられる。女房に枕代や料理代を払うやつはない。だからといって女房たるもの、ゆるんではならぬ。長年の間に、たいせつな真心さえも忘れてしまうものがある。だから、主人は料理屋にばかり行き、よそに女をこしらえる。
 真心があれば、そこにテクニックというものが必要だ。テクニックを重要視してはならぬ。さりとて、これを軽蔑《けいべつ》することはいかぬ。別にお女郎のマネをしろとはいわ
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