やはりいろいろあるとお返事するより仕方がないでしょう」
「ホホホ」
 ここでもまた歌人は笑う。ホホホといったのだからケキョと啼くかと思えるばかりのあでやかな声である。
 あまり長居されても困るので、こっちから話し出さねばならぬ。
「うぐいすに配するなら、さしずめ梅というところでしょうね」
 女流歌人は、意外という顔つきで、こんどは笑わない。
「先生」
「うん……」
「梅にうぐいすでございますか」
「さよう」
「あの、梅にうぐいすなどは、歌の方で申せば、あまり使い古されておりますんでございますが……いかがなものでございましょう?」
「使い古されているのは、歌のほうの話でしょう。梅は年々新しい蕾《つぼみ》を持つ、うぐいすは年|毎《ごと》に新しく生まれますよ、奥さん」
 彼女はいおうかいうまいかと、しばしハンカチをひねっていたが、思い切っていった。
「先生、梅にうぐいすでは、あの、あまり陳腐ではございませんでしょうか」
 わたしは呆《あき》れて尋ねた。
「それでは伺いましょう。あなたはなんのために歌を作られるのでしょう。いや、なんのためといって悪ければ、なにを表現しようとなさいますか」
「それは先生、真実を表現することでございますわ」
「真実を表現するためには、真実を見出《みいだ》すことが必要ではないでしょうか」
「もちろんでございますとも」
「それならうぐいすはどんな木に止まりますかね」
「それは、だからいろいろでございますわ」
「うーむ。これはおもしろい。あなたのうぐいすは浮気ものですね。わたしの庭に来るうぐいすは、やはり、梅の木に止まります。毎年春になると、母親のうぐいすが、子供をつれて梅の木にまいりますよ。そして母うぐいすが、子うぐいすに、うたを教えるのです」
 歌人は驚いたようにわたしを見つめている。
 わたしはかまわず続ける。
「梅にうぐいすということは、言葉の語呂のよさでもなく、絵描きの都合上そうなったのでもない。やはり、うぐいす自身の自由な意志で、梅の木に止まるのですよ。それを見た絵描きが、いつもうぐいすが梅に止まるので梅にうぐいすを描いた。他の絵描きも描いた。年々このようにして梅にうぐいすが描き継がれてきた。歌人もこの事実を歌った。そして、幾春秋、梅にうぐいすは一つの真実の美から、概念の美になってしまった。あなたは新しいものを歌おうとされる。だが昭和のモ
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