美味放談
北大路魯山人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)芸妓《げいぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)金|儲《もう》け
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)鴨[#「鴨」に傍点]
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上京の頃
僕が初めて東京に出て来た年少時に、京橋のビアホールになにか祝いごとがあってね。ビールが半額なんだ。飲んでやろうと思って行ったが、まず洋食を食おうと思ってね。ところがその時は洋食のことはなにも分らん。ビフテキといっても、それが野菜だか肉だか飲物だか分らん。どうしようかと思って、そこで考えたね。隣のテーブルで命じたものの名前を覚えておいて、その品物が来るのを一生懸命我慢して待っておった。ところが持って来たものがもしかして、前に命じたものを持って来たんじゃないかしらなんて心配してね、用意周到なことだ。とにかくビフテキを注文したがもしかして変なものを持って来たらば逃げ出そうと思っていたら、隣のと同じものを持って来たので安心したよ。聞いてみたらこんどはフライだ。そこでこっちもフライを注文した。西洋料理の名前を二つ覚えたよ。なにしろ他人の注文した料理を見てから注文したんだからね。……その洋食を食った頃は京橋のカフェーなんど古風な物だったよ。新橋の芸妓《げいぎ》を呼んでサービスさせたものでね。その頃「伊太利」とかいう洋食屋があって、イタリア風の「うどん」を自慢にしている料理人があった。「ゑり治」の横辺りだったか、三共の横辺りだったかにあった。二百種類くらいマカロニを拵えるというのでね。僕は毎日違ったのを作らせては毎日食ったもんだ。食うことにかけて、いかに研究心が盛んだったか分るだろう。いい機会だと思って毎日行ってみたわけさ。
遂《つい》に向こうで困っちゃってね。そんなに毎日は出来ませんて、金は先へ預けておくといっていつでも、二、三十円くらい置いといたが、向こうの方で困っちゃったね。十七、八年前になる。
その頃のこと、去年の暮れか今年の春か、ライスカレーで特色を見せた「南洋」のカフェーの女主人が「わたしの顔だといって先生がスケッチしてくださったのを、今でもわたしは持っています。お閑《ひま》の時がございましたら一度見て頂けませんか」なんていって来たが。その手紙も遂になくして見あたらなくしてしまった。
料理屋の経営
日本人の食う料理はみな日本料理だよ。うなぎ屋でも、寿司屋でも、何屋でもそれは日本料理だ。しかし日本料理が十種あるとしてだね、その中の一つだけを知っているというのが、今の日本料理人だ。後の九つは知らんでもすましている。そういうことを指導したり取り扱ったりする人間がほとんどいないんだね。星岡の取り扱うものは日本人の食うすべてのものだ。だから日本料理といえる。西洋料理や、中国料理にはまたおのずからその道がある。それをやるとすればまた僕の気に入るような設備をしなければならない。とにかく、世間並みのこととは根本的に見解が異なる。金|儲《もう》けの一途にしているのではないんだから、ただその柄を同じうするだけだ。世間のは料理人が労働者で主人が資本家で、それで利益のために商売している。利益が最後の目的だ。そこが星岡と違うところだ。経営上維持してゆく以上の利益は図らない。金を儲けてそれで競馬をやったりいろいろ俗な遊びをしたりするんじゃない。
料理道ということを本格的にやっていくため、日本料理界の建てなおしのためだ。世間並みの料理屋は料理道を楽しんでいない。東京の星岡は十年間経営して失敗しないが、大阪のはどうかなんてゴテゴテいうひともあるが、とにかく、料理道を本格的にやっていけばどこも同じだ。牛肉屋でも何屋でも日本人の食うものを料理するというのだが、それがなかなか分らん。分らんはずだ。算盤《そろばん》ずくで商売している者からは……星岡は道のために努力をしているのだが、自分でいうのは変だが、こんなのはどこにもありませんよ。初めから利益のために商売しているんじゃ、本当のことは出来ない。勘定を合わすことばかり考えていてはだめだ。今の料理屋は根本的にいえば器物からしてだめだ。食い物の相棒の食器のことを放縦していて、食い物をじかにお膳《ぜん》の上に置けますか……それを合わせ物かなにかで間に合わせてすましている。食器は食い物の女房のような役だ。食器がよくてもこんどはそれをのせるお膳だ。お膳を置く場所だ。これくらいのことをいえなくちゃ一流じゃない。それをですね、世間の料理屋は、なんにしても十円の物だとしたら、それは五円の価値しかない物を、十円取ろうとしているから、自分の女房を客席に出してサービスさせたり、主人が必要以上に挨拶《あいさつ》に出たりなんかしなくちゃならないんだ。料理道の本分を全うせずして商売していこうとするから見識もなにもあったものじゃない。星岡は料理の本格学校みたいなものだ。それだけの力のある者はどんどん登用する。陸軍大学だって少佐に成ってから入るが、ここもそれと同じようなものだ。今の料理人はなにも知らん。板場でゴトゴトやっているだけで客席に出す様子も知らんしね。そんなことをどうするかっていうのが料理だ。とにかく、世間とはぜんぜんお膳立が違う。見識が違う。さもなければ天下の名士が無意味な金を出しますか。金の有効な使い道を知っている紳士達だ。利益ずくじゃないってことはこれでも分る。大阪の方でも、東京の星岡の十年間のことを認識しているからね……通常の考えとは頭が違う。それを自分に頭のない者は、星岡というものを競馬にでも当たった当たり屋のように取っている者がある……まぐれ当たりは十年後いよいよ栄えるわけにはゆかん。しかし、見る者はそうでも思っていないと、自分達が安心出来ないからねえ。
とにかく世の中には、酢でもこんにゃくでも食えないように鋭い商人があるが、星岡はそうじゃない。時に酢でもこんにゃくでも食えないように大坊ちゃんだ。昔武士が「尋常に勝負」といって立ち向かうが、あの真剣な態度が星岡だ。大坊ちゃんの仕事だ。さもなくば名士が相手にならないよ。こんなことはひとがいうことだけれども、誰もいわないから僕がいうんだ。半分だけみて、坊やとあなどると失敗するよ。むずかしい大坊ちゃんだ。そういう意味において、豊臣秀吉なんかも酢でもこんにゃくでも食えない大々的な坊ちゃんらしい。だから大物になれる。けちな欲気なんか少しも持っていないのが太閤《たいこう》だ。
鰻の下拵え
すずきのごとき魚も洗いにしてうまいものだが、東京の職人のこの作り方をよく心得ているものが少ない。また、うなぎのごときも東京には本物のうなぎが少なく、ほとんど養殖ものばかりといっていい状態だが、このうなぎの扱い方などをみているとなかなかおもしろい。
これは東京の職人がだんぜんうまいね。うなぎというものは、素人にはちょっといじれない。ところが法を心得ているものには実に簡単だ。その第一のコツは、自分の手を水温くらいに冷たくしておくことだ。そしてこの冷たい手でうなぎの尻の部分を軽く握るんだね。すると、うなぎは前へ逃げるかと思うと、反対に手の方へ入って来る。そこがうなぎの習性で、うなぎは岩かなにかに触れたとでも思うのだろう。そして穴の中へもぐり込むような気で手の中へぐうっと入ろうとする。こうしてうなぎの体に力の入った瞬間に、職人はすっとそれを前へ押し出すようにして俎上《そじょう》に載せてしまう。だから見ていると実に不思議なほど簡単だ。それを知らないでだね、あったかい手をして首玉のあたりを握ったりなんかするから、うなぎはくねくねして扱いにくい。名人とかいわれるほどの職人はそこがちがうんだ。そしてとんと首のところを打って、うなぎが一瞬間精神|朦朧《もうろう》として、ぼんやりしているところにつけ込んで、クー、クー、クー、と三遍で尻まで裂いてしまう。この技術は関西では見られない。東京の職人のいいところだね。
だがこのうなぎ裂きよりむずかしいのは、どじょう裂きだ。素人はどじょうの方がやさしいと思っているがどじょうには細かい肋骨《ろっこつ》がある。あれを肉の方へ残さず、といって骨の方へ肉をつけずに、具合よく裂くということがなかなか容易でない。僕もずいぶんやってみたが、うまくいかんものだ……。
飢餓は食を弁ぜず
そうだ何日か江州へ鴨[#「鴨」に傍点]を食いに行ったことがある。鴨というとなんとなくかしわよりはうまいような気がするんだね。ひともそういうし、自分でもそんなふうに思うんだね。そこで江州の鴨が美味いというんで、あの辺でご自慢のものだから、これを食った。なんでも一週間か十日も鴨ばかり食っていたろう。別に特にうまいとも思わなかったが、まずいとも考えなかった。ところが、その終りごろさんざん鴨を食ったあとで、一日かしわを食ってみた。すると、かしわの方が鴨より数等美味かったので驚いた。これには鴨を食って損をしたような気がしたね。
だから物は自分で食ってみんことには承知出来ない。ところがだね、いわゆる食通でございと称して食べ物の本などを書いているものに、ろくに食いもしないでものをいっているものが多い。いのししは昔はどうして食ったとか中国ではどういう字を書くとか、そばは何科の植物でどうやって打つとか、いろいろ知ったか振りをしているが、その実そばひとつ真から自分で味わったこともないのである。なんのことはない、そういうものは辞書のうけ売りなんだね。さっきのてんぷらでもそうだ。やれ天金がどうのこうのというから、それでは天金のてんぷらをどれだけ食ったかというと、なにろくに食ってもいない。そのくせ、あそこのてんぷらはかやの油を使うからうまいなどと、もっともらしいことをいう。そんなことをいわれると知らないものは、かやの油というものは高いものなんだ、などと思う。しかるにかやの油なんてものはかえって安いものだ。そうすると、かやの油、かやの油と宣伝して、結局どういうことになるかね……。
だから孔子あたりが昔から、飢餓は食を弁ぜず、食するひとはあれど食を弁ずるひとは少なしなどといっているが、ほんとうだ。
僕は徹底的にものを食ってきたが、小さい時から味をぐっとこう見詰めている癖があったね。それになんというか楽しんで食うという気分があったね。物を自由に食うには実際問題として金がなければ食えない。僕は貧乏書生だったから、そう自由には食えなかったが、しかしおもしろいことがある。
僕が二十一、二の頃でもあったろう。あるところの事務員をしていた。僕の上にいた課長というのが、後に資生堂の重役になった男だが、この課長が僕|等《ら》といっしょに昼飯を食う。僕らは金がないからろくなものは食わないが、課長ともあろうものがやっぱり僕らと同じものを食っている。僕はどういうわけだと思ったね。きっと夜はうまいものでも食うんだろうなどと考えたりしてね。ところが、僕はそのころでもいわば、少し風流だったんだね。僕は昼飯によく豆腐を食うんだ。豆腐は安くてしかもうまい。しょうゆは家で拵えて持って行くんだ。ところが豆腐をただ食っていれば、別に話はなかったが、この豆腐を入れる容《い》れ物が、当時ギヤマンと呼ばれていた紅|硝子《ガラス》の切子細工で実に見事なものなんだ。そのギヤマンの中へ真っ白な豆腐を盛って食うんだから、これが見た目も美しく、うまそうなんだね。するとある日課長に、君は実に贅沢じゃないか、といわれた。そこで僕はなにが贅沢なものですか、豆腐がいくらするというんです、おそらく誰よりも安いもので飯を食っているわけじゃありませんか。事実そのとおり安いもんだからね。ところが、豆腐はなるほど安いが、それを入れる容器が今いったような美術品だもんだから、傍《はた》からみるとまったく贅沢でもあり、またいかにもうまいものでも食っているように見えるんだね。だもんだから課長も、なるほどそりゃそうかも知れんが、その容れ物が第一立派じ
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