は僕も好きな方だね。ああいうものは、なんとなしに少し食っても血肉になる感じがある。
にんにくの匂いも体にしみてくるが、ふぐなどというものもそうだね。あんな淡泊な魚がと思うが、僕は先日十日ばかり続けてふぐを食っていた。すると、ある男が僕と話をしているときに、なんだかふぐの匂いがするね、というんだ。驚いて自分の体の匂いを嗅《か》いでみたら、なるほど、ふぐの匂いがする。恐ろしいものだね、あれを思うと、ふぐなどというものは、決して思ったように淡泊なものでないんだね。
中国料理と京都料理
それから中国料理の話だが、中国に料理が発達したのは、食道楽のためのみではない。一つには食品が少ないということが、料理の発達を促した原因になっている。例えば中国の桂魚のごとき、あんなものを珍重がっているが、あれは日本だと誰もうまいともなんとも思わない。というのは日本のごときは食品に恵まれていて、うまい魚がいくらでもあるからだ。その点では、一般に海辺に臨んでいるところでは料理が進歩しないということが観察される。それというのも、海辺は食品が豊富でめんどうな料理などをしなくとも、いいかげんに拵えて食って、結構美味しく食えるという事情がある。また、日本では、料理をする場合に実によくゴミを出す。魚一つ切っても頭を捨て、尾を捨て、はらわたを捨て、少し極端に云《い》えば大部分を捨ててしまう。それは一つには料理法を知らないからではあるが、料理法を知らなくてもよいほど、材料が豊富であるという点に起因していると思う。
中国料理にともすればグロテスクな食品が取り入れられるのも、この材料の少ないという点から来たものではなかろうか。例えばひきがえる[#「ひきがえる」に傍点]の如《ごと》きがそれだ。なるほど、あれはアメリカの食用がえるなどよりはうまいが、少し苦味がある。ああいうものを食うというのも、食品の不足からおのずとそういうものに手を出すようになったからと思われる。
京都に料理が発達したというのも、ちょうど中国料理の発達に似たものがある。まず山の中にあって食品に恵まれていない。しかも、昔から千年来の皇居があり、著名な寺の多くある文化の中心地である。そこで勢い料理法というものが発達したものとみられるんだね。
ところでそばを味わうので大切なことは、少しずつつるっつるっとやるんでなしに一度にたく
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