ゃないかといって、それが贅沢だというんだ。今から考えてみりゃ余計なことだが、当時はそういうことをいった。そこで僕は、これは実は嘘だったが、なるほどギヤマンは贅沢かも知れないが、これは僕の家に昔からあるもんで、他の容れ物がないからこれを使っているんです、と抗弁した。実は、そのギヤマンというのはなけなしの小遣いをためて、当時の身分としては不相応の金を出して買ったんだから、このいいわけはインチキなんだけど、これで課長もなんともいえなかった。
要するに物を食うには、なければないでどこか風流だったんだろうね。豆腐を食って贅沢だといわれたのは、おそらく僕ぐらいのものだろう。
風流といえば、当時の風流人に岡本可亭があった。これは岡本一平のお父さんであるが、当時僕はこのひとに連れられて、入谷の朝顔、団子坂の菊などを見に行った。朝顔などはすでに京都の方がずっとすぐれていたから、京都の朝顔を知っていた僕にとっては入谷の朝顔など至極つまらないものであったが、当時のいわゆる風流人はそういうところへ行っては、帰りに根岸の「笹乃雪」へ寄って来たりするのであった。僕が若いに似ず風流を解するというので連れて行かれたものなんだね。そこであの笹乃雪なるあん掛豆腐を食ったりしたものだが、これが小さいものだから、二十や三十くらい食うのは瞬く間だね。中には五十も六十も食うということを自慢にしているものもある。それから僕は一人でもよくここへ出かけた。行きかけるとどこでも、舌が徹頭徹尾承認するまで行くんだね。そんなわけだから自分の給料というものは、まったく食う一方に使われた。だから友達の中にはうらやましがっているのもあったね……。
朝鮮の牛肉
徹底的に食うということでは、朝鮮へ行った時のことだが、二十四、五歳のころだ。朝鮮にはうまいものはまずない。ところが朝鮮の牛肉が割合にうまかった。もっとも他に食うものがないからでもあったが、牛肉がうまいというので、その話をある男にすると、いくら美味しくても一カ月とは食えまいという。いやそんなことがあるもんかというので、毎日牛肉を食った。そしてついつい半年食いつづけた。
しかし、さすが半年食いつづけたら、しまいには少しいやになったね。
朝鮮時代の食い物で今でも覚えているのは、親子丼の味だね。僕は当時これでも書家をもって立っていたんだが、職務は軍属で
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