《もんめ》のところがちょうど美味本位に当たるので、一貫目から一貫目以上になると、非常に味が大味《おおあじ》になります。しかし、味はたとえ落ちても、大きいたいの頭《かしら》を兜《かぶと》蒸しなどに使うのは立派でいいでしょうが、実際からいいますと、やはり、美味《うま》くありません。大きいのは形と色彩がよくて感じは立派だが、味は論になりません。それならば小振りのものが味がよいといって、小さいものばかりに決めるかといえば、たびたびのことになると、そうばかりにいかない。ただなにごとも単純ではいかないのであります。こういうことについては、なにもかも一応知って苦労をしておき、そして、機宜《きぎ》の処置がとれなくてはいけません。
 もともと美味いものは、どうしても材料によるので、材料が悪ければ、どんな腕のある料理人だって、どうすることも出来ません。里芋《さといも》でいっても、ゴリゴリした芋だったら、どんな煮方《にかた》をしたって、料理人の手に負い切れないのです。さかなにしても脂《あぶら》っ気《け》のないものは、それこそ煮ても焼いても、バターを付けようと雲丹《うに》を塗ろうと、どんなにしたってものになり
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