し、また、従って買えるものではない。作る者も低級だが、これを見たり買ったりする方もまた低級で、両方とも取り組みになっているというわけである。
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世に文士は多い。だが彼等は器用な筆を持っていても、帝展の新画一つ批評するものがない。彼等には帝展の絵でさえ批評する力がないのである。しかし、こうしたことは昔でもその通りであったかも知れぬ。九分九厘までは低級卑俗なもので占められていたかも知れぬ。
だが年代の進むに従って、だんだんインチキが多く堕落していくのはどういうものか。ともかく、不真面目《ふまじめ》になっていく。真剣味がなくなっていく。それは争われぬ事実である。これにはいろいろの事情もあろう。社会的、経済的関係もあろう。料理についていえば、料理がインチキになるとともに、材料そのものがインチキになっている。
例えば牛肉である。牛肉を研究するのはよいが、その研究の目的たるや牛肉の本来の味を作り出すための研究ではなくて、色をどうするかというような見てくれを考慮する。鳥でいえば、かしわはかしわそのものの本質を保存すべきであるのに、その本味を忘却し去って、やわらかければよいというので、ただやわらかくつくることをもって能事のようにしてしまう。もう一つは経済的事情からか安ければよいということがモットーとなって、結局イカサマものを作り出して金高を張らせないように研究する。これは本当には決して安いということにはならない。金高はなるほど低いが品そのものがインチキなのだから、かしわを買っても本当のかしわの味をもっていない。だから実はかえって高いものである。そこで料理の方では、材料の選択はますますむずかしいということになっている。けれども一般がそういうインチキもので気が済むというのは、みながほんものを知らず、また知っていても、いつしかそれに慣らされて、あえて不審がらなくなっていくためであろう。こうしてよいものがだんだんわからなくなり、従って、またよいものがなくなっていくということは、いかにも残念なことといわねばならぬ。
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近頃帝室博物館が熱心に勉強しだして陳列品をどしどし転換し、いいものを次から次へと陳列して見せてくれるようになった。これにとびついて見るのは美術家、すなわち画家や彫刻家にあるわけだが、実際に見に行く美術家はきわめて少ない。いやしくも
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