と思って参考のために見物に行ってみたが、ひと口にいってしまえば、醜悪そのものの陳列であった。もちろんみな苦心していることは認められる。しかし、その苦心の跡をみると、要するに彼等がいかに無知であるかということが語られるばかりという他はない。物の道理に従って素直に誠実に料理をやっているものが一人としてないのである。なるほど、技術技巧に凝ったものがあるが、要するにそれらは児戯に等しいと評するの他はない。児戯に等しいものはまだよい方であって、中には悪ふざけに走ったものが非常に多い。それで得意になっているところを見ると、みながみな悪悟りをしてしまっているのである。ところが、この料理展覧会が確か五階にあって、六階にはその時ちょうど、木彫や水彩画の展覧会が開かれていた。この方はさすがに美術の専門家だけに下の料理展覧会に比べるとはるかに美術的であった。しかし、その内容をよくよく点検すると、そのつまらなさ加減、まったく階下の料理と同じであったといわざるを得ない。観音様を彫ればそこらの芸妓|面《づら》をしていたり、恵比寿大黒が落語の百面相であったり、所詮われわれの脳裡《のうり》にあるものを表現してはいないのである。技術はなるほど進歩している。しかし、内容の低級なることまったく料理展覧会と軌を一にしているのである。こう見て来ると、要するにある者は縁あって料理をやり、ある者は縁あって彫刻をやり、またある者は縁あって水彩画をやったというに過ぎなくて、これらのひとはすべて人間価値において同じであると思われる。結局ひとがいないという結論になるのである。
 しからば彼等はなぜそんなに低級なのかというと、要するに材料のなんたるかを、木彫のなんたるかを、水彩画のなんたるかを、充分に理解していないからである。器用にスケッチすることは出来ても、それが本体を掴むことが出来ないのは、本体のなんたるかを知らないからである。ひと口にいえば天与がなく、誠実がないからである。しかし、僕がこういったからといって、世間にこれらのものを賞賛するひとがないわけではない。ないどころかなかなかたくさんある。だいこんで鶴がうまく刻んであるとか、寿司の取り合わせがよいとかいってなかなかの人気であった。また、木彫にしても、水彩画にしても、これを買っているひとがあったのである。しかし、心あるものには、これらはとうてい賞めることは出来ない
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北大路 魯山人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング