美食として大きな働きをするのでなく、天然の味を生かして味わうことが根本的となるわけだ。複雑な調味料や複雑な調理法は、日本料理に無用な場合が多い。
こういうと、きわめて日本料理は簡単に考えられるが、この天与の天味を味わうということは、たかなかむずかしい。それはこれを知るひとがきわめて少ない一事で、かように断ぜられる。
西洋料理のごとく中国料理のごとく、人間の取り繕った味というものは大衆に分りやすい。だが分りそうで分り難いのは、前いったように天然の味を知ることだ。
一般に分り難い天然味と大衆に分りやすい人工味
天然の持ち味は実にその数が多い。千種の魚があるとすれば、千の異なった持ち味がある。万の野菜があるとするならば万種の持ち味がある。これをいちいち味わって身につけることは、なんでもないようであって容易ではない。いわんや、それをいちいち生かすことにおいてをやだ。そこへゆくと料理法で、ひとの作った味は、その数にもかぎりがあってきわめて容易だ。数からいってもまったく覚えやすい。また、同じ人間仲間の作ったものであるだけに、直接親しみやすいところがある。そのせいか、たいていの人間は人知で出来た味付け物を喜ぶ。それから先へはなかなか歩まない。
これを絵画で譬えれば、愚にもつかぬ絵を喜ぶ者が、天然の美に関心ないようなものだ。薄《すすき》の絵を見て、それが芸術上愚にもつかぬ絵であっても喜んでいて、本当の薄を見るとき軽視するがごときだ。美しさにおいてはいうまでもなく、本物の薄がもともと美しいのであるが、その薄の美しさは分らないで、下手でも絵の薄を喜ぶ。
味を知ることにおいても、たいていはこの程度のものが多い。要するに日本料理の名手たらんとする者は、天然固有の「味」を天分の舌に認識して、それをいかに生かすかに苦心する者であらねばならん。日本料理は西洋料理の鍋の中でゴッタ返す手腕が物をいうのではない。食品材料の良否を弁別することを第一とする。それが出来得る力こそ、日本料理の根本を知る者だ。しかも、その上、美術鑑賞の可能要素が要る。それというのは、よき料理になればなるほど、料理に関連する食器その他が美術価値を高めてくるからだ。
日本料理は見る料理ではなくて見るに足る料理となるわけだ。暗室で食う料理でないかぎり、盲人の食う食料でないかぎり、美を離れて存在するよき料理というものはないはずだ。
フランスの名人というオウグュスト・エスコフィエ老は、果たしていうところの美と天味を知っていたかどうか。画でいえば精々|栖鳳《せいほう》とか、鴈治郎《がんじろう》程度の技巧的名人肌ではなかったか。西洋人の世界一は、口ぐせの場合が多いようだ。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1935(昭和10)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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