合するという意味のみになって、料理から個性というものが失《な》くなり、ただ上っすべりした万人向きの無意義な薄っぺらなことにして、お茶を濁しているように思われます。上っすべりした迎合の料理というものは、決していいものではありません。しかし、なにも知らんひとから見ますと、その料理屋のやっているつまらないことを立派なことのように思い、家庭でもやってみようというひともあり、それで料理屋も立っていくのでしょうが、料理屋のすべてを真似ることは見識ではありません。
 そこでどんな料理が、日本料理としていちばんよいのかといいますと、それは、お茶の料理がいちばんよいのです。昔の人が真心を入れて作った献立、その気持が大切であって、今のひとはなんでもいい加減にやっておりますが、昔のひとのは、ひとの迷惑しない、しかも主人が自慢をしない程度の料理であって、調和ということも充分合理的に考え、嘘がなく、ほんとうに自分の真心で、しかも誇らないで、ひとに迷惑のかからないものでありますから実にいいのであります。つまり、余計なことや、識者から見て滑稽でない、合法的なものが昔の茶人の献立であります。
 料理も大切でありますが
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