ているひとはまずありません。刃の切れないのや、はなはだしいのになっては小刀等で削っているのがあります。それで理想的なだしの出ようがありません。しかも、不経済で一円のかつおぶしで五十銭くらいにしか働かないことになります。
 なにはともあれ、かつおぶしの削り方も、昆布だしのとり方も知らないようでは、通のような顔をしていても通にはなりません。
 それから料理をすることになりますと、料理は皆様が着ていらっしゃる衣服のようによそ行きの料理とふだん着の料理とがあります。またその中でも同じよそ行きがお客様の種類によって違うことになります。よそ行きにもいろいろあるが、ふだん着にもいろいろあります。趣味を持っているふだん着もあれば、味のない実用だけのふだん着もあります。よそ行きもまたそうであります。持ち味で行こうとするのと、ただの形式的のと二通りあるということを、いつも心得ていて、しかも、その上、春夏秋冬と異なるのでありますから、それもまた考えねばならぬことであります。だいこんおろし一つするにも、それはいろいろと違うのであります。
 つまり、料理は機宜の処置が大切であります。あくせくして疲れて腹をへらして帰って来たひと、そんな場合、いかなる料理にしても長い時間を待たせておくということは感心出来ません。取りあえずすぐ作って出すことがご馳走になります。そのひとびとによって、腹加減を見ることが必要なのです。百姓や労働するひとびとには大量を、贅沢なひとには少量をというように、その相手によって、しかも、時と場合を考えて作る必要があります。
 料理は相手次第、相手によって、どうにでも出来るという機知がなくてはいけません。
 すべて材料はなんでも新鮮がいい、ということになっておりますが、しかし、魚類等の種類によっては、いろいろと違うので、だいたい大魚はある程度まで時間を経過させると、獲りたてよりもよりよい人間の考慮したうまさになります。また、小魚は出来るだけ新鮮がよいので一日も二日もおいたのでは決してうまくありません。鳥類でも、雁《がん》、鴨というふうに大きいのは時間をおいた方がよく、小鳥等はやはり獲りたてに近い新鮮な方がよいのです。しかし、ことに野菜は、大概は採りたてがよいので、時間を経過したものは、決してうまくはありません。そらまめでも畑からとってすぐゆでますと、町で買う普通のそらまめのようで
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