古陶磁の価値
――東京上野松坂屋楼上にて――
北大路魯山人

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)喋《しゃべ》れ
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 展覧会のことはただいまお聞きのとおりでございますから繰り返して申し上げませぬが、私に喋《しゃべ》れといわれましたことは、古陶磁はなぜそんなに尊いかということをいってくれというお話でありましたので、それをうまく申すことは出来ないと思いますが、まあ簡単にそれをいえるだけ申し上げてみたいと思っております。
 それで私の察するところ古陶磁はなぜ尊いかということは、一つの茶碗で一万円のもあり、五万円のもあり、十万円のもあり、また三十八万円という驚くべきものもあります。そういうふうに土で出来た焼物が高いということは、一体どういうわけでそんなに高いのであろう、分らない者からいうとてんでわけが分らない。なにかれそれは引っかかって病的な趣味になっているのじゃないかというような疑問もないとはかぎらないというような意味から、陶磁はなぜそんなに尊いかというような質問をだされたのだろうと私は察するのであります。誠に、それは無理のないことだと思うのです。分らない者から見ますれば、金で茶碗を拵えましたところが、抹茶を飲む位の大きさの茶碗ならば数千円位で出来るだろうと思います。またプラチナで作りましてもたいてい想像が出来るだろうと思います。金やプラチナでは決してそんな高いものにはならない。二十何万円というようなものはとうてい原料では出来ない。それがもとで申しますと殆《ほとん》ど一文にも適当しない土が、ちょっとした作り方によって一万円になり、五万円になり、十万円になり、二十万円になり、三十万円になるというわけだ。そういうような意味を私がお喋りすることが、この会のなんかのお役に立つのじゃないかと思うのでございます。それは原料で考えます場合にそういうふうになります。これはもし陶磁ではなく、名画で例を申しますと、名画では御承知の通り何万円、何十万円もするものがたくさんあるのであります。それは御承知だと思いますが、それならその名画はなんでできているかといえば、やはり高いというのはよい絹であるとか、よい紙であるとか、よい墨であるとか、そんなことではない。今日使われている程度のものは高いといったところが高の知れたことです。そんなら金で描いたら高い絵が出来るかというと、そうはいかない、御承知の通り牧谿《もっけい》だとか、あるいは芸阿弥《げいあみ》だとか、相阿弥《そうあみ》というような絵はいわゆる墨画でありますが、原料でいえばそんなものはいくらほどのものでもないと思うが、やはりそれが何万、何十万円今日しております。それとやはり同じ道理で、原料によるわけでないということはいうまでもないことだろうと思います。
 そうすると今日高い価をしている古陶磁というものはそんならなぜそんなに高いのかといえば、それはいうまでもなく芸術的価値があるからであります。芸術的価値というと、それならどういうことかということになりますが、近頃はこの芸術という二字が非常に濫用されまして、ちょっと女優が踊を踊っても芸術、流行歌をレコードへ入れてもそれが芸術だという、そんなことになってくると芸術は大分解し難いことになるのでありますが、芸術といっても端的に一つじゃない。それは、的《まと》だということがいい得ると思います。それでいま古陶磁の場合でいいますと、古陶磁のよいものはやはり芸術的生命がある。それと同時に美術的生命がある。もう一ついいますれば、それは美術だ。美術品として尊い価値があるから、それが故に高いのだといい得ると思うのであります。絵でありましてもやはり美術品であります。建造物でありましてもやはり美術品であります。それから能書で、弘法大師の書がよいとか、小野道風《おののとうふう》の書がよいというのも、やはりこれも美術品であります。美術以外になんにもありませぬ。そういうふうに陶磁も美術価値があるのであります。それが故に他の美術品と比較いたしまして、美術価値上比較的に考えます時に五万とか、十万とか、三十万とかいう相場がおのずからつくのだと私は考えております。同じ茶碗でありましても一円のもあります。五十銭のもあります。それから現今生まれておりますところの茶碗では十銭位からでもありましょう。それから高いのになりますと二十円とか、三十円とかいうのもあります。なぜそんなに違うのか、それは今のもので考えます時には、いろいろなやはり都合がありましたり、作者とか、販売者とかの策動がありましたり、いろいろのかけ引きがありまして一円のものが二十円になり、三十円になりしているようなこともありますが、古いものでは遠い昔のことでありますから篩《ふるい》にかかって公平な値段がつけられておる。そこで大体において古い物は間違いのない相場がついているようであります。それはなにによって相場がついているかというと、やはり今申し上げたように美術上の価値、美術的にそれだけの価値があるということ、そこで美術と申しますと、この頃は工芸美術とかいうような言葉が盛んに流布されておりますが、また一面には純正美術という言葉もありますが、純正美術と工芸美術とどう一体違うかといいますと、これは簡単に申しますと、工芸美術と申しておりますのは、職工的であるということ、それから純正美術だと申しておりますのは、芸術的であるといってよいと思います。
 それで、それならばどうしてそういうようなものを区別するのかということになりますが、それも故ないこともないと思うのであります。同じ美術に致しましても、一方は芸術的であり、一方は職工的であるというようなことがいえるのでありまして、よく何々的と申しますが、的ということはとりもなおさず「まと」ということでありまして、これは弓やなにかを引きます時に的《まと》がありますが、これが芸術の一つの的である。ところが弓を引きます時に芸術に向かって弓を引くのもあります。それから職工的に弓を引きますのと二つありまして、世間でいいますところの芸というものは初めからこの的を目指してやっているのであります。それから例えば帝展とか、院展とかの絵とか、彫刻というものは初めから芸術的と職工的、これを目指していっているのであります。それでこの芸術的というのは主として心的とか、あるいは熱的とかいう内容を持っている。芸術はとりもなおさず内容を主とするものである。外貌《がいぼう》じゃない、それで絵でも御承知の通り今もっともやかましくいわれておりますようなものには、一般に御承知の法隆寺の壁画でありますとか、あるいは推古仏とかいうようなものでありますとか、尊いものがありますが、それらは主として内容が尊いのであります。もとより一つの工作でありますから技術もあります。理知も働いております。けれども価値の主なるものはこの内容が尊い。それに引き比べまして職工的の方は外貌、外側の非常によく見えるように理知的に工夫する。例えば極端な例をあげましたら、箱根細工のようなものは、ちょっと出来ないような木を組合わせた緻密《ちみつ》な細工がしてあります。そういうようなものは、どこまで進んで行っても職工的であって、そうした外貌的のものであって、理知的なものであって、内容というものは一向ありはしない、だからいくらそれがうまく出来ましたところで芸術の方には入らない。そこでこれを芝居などに致しましても、私は残念ながら見ないのでありますが、芸術的生命を持ったという最近の俳優といえばおそらく団十郎だろうと思うのであります。これは団十郎の写真を見ましても、団十郎の書いた字を見ましてもかなり芸術的なものが表現されております。それで彼にして初めて芸術的であったといい得ると思うのであります。それもどの辺までの芸術家であったか、それは私は見ないのでありますからわかりませぬが、この芸術という的《まと》に致しましても、ここにたくさんの層があります。こういうふうに幾千とも幾万ともいえない層があるのでございます。そこで真ん中に中心があります。ここに当たるところの芸術が、ここになると的《てき》とはいわない、芸術といってよいと思います。ここに至ると、推古仏のものとか、あるいは法隆寺の仏画に表われている壁画とか、そういうようなもっとも調子の高いものを心的としてよいと思うのであります。そういうものでありますから芸術的なものはたくさん段があると思います。そこでここに至って初めて真の芸術であって、ここから少し外れるともう芸術的になってしまう。ここに例えば推古仏があるとしましたら、法隆寺あたりがここにある。周文あたりがこんなところにいる。蕪村とか、応挙とか、こんなところにまごまごしているというようなことになって、ここまでなかなかいかない。つまりこれは芸術的だから芸術品としてさしつかえありませぬ。そこでこの頃例えば、お差し障りがあったら失礼いたしますが院展なら院展、帝展なら帝展に絵が出ます。あの作者を仮に個人的にどこかで人に紹介します場合に、なんといいますかというと、これは院展に出品しているとか、帝展の特選になっているとか、審査員であるとか、芸術家であるとかいって紹介している。紹介された人も芸術家扱いしている。それはしかし芸術家であって、芸術を生む人とは必ずしもかぎらない。帝展とか、院展とか二科展に出品するところの多くの絵描きを芸術家だという。この人はなにしている人かと一言にしていう時に芸術家だといっている。それなら芸術家という人が芸術を生むかというと、それは芸術家と称する人であって、生むことがあるかもわからぬということです。それでこの的を狙っているだけです。生むか生まぬかは別問題、現に私ども心やすいので、直接会って本人から怒られるようなことはないから安心して申しますが、仮に横山大観に致しましても、決して立派な芸術を生む人とはいえない。それと私ども古い尊い芸術を知っている者からいいますと、仮に横山大観がこんなところにいるとしましても、これを狙っていることはみな狙っている。今日では狙っていないでしょうけれども、初めはみな狙っていた。そこでこれらの人たちがここにいるから立派なものでありますが、しかしここに推古仏があるとすれば、この作品とこの作品の距離というものは非常な距離でありましてえらいことになるのです。だから私どもこれを知っている人間から見ると、ここらあたりに天平が来る。藤原が来る。鎌倉が来る。徳川が来る。みなずっと知っている者から見ると、もう少し下の方にいるかも知れないことになる。そうしてみますとそんなに尊い芸術じゃない。しかしこっちの方の職工的の部類じゃない。こっちの職工的の部類に例えばどんなものがここにいるかといいますと、みなさんが御承知の通り煙草入の金具を作る最近の人で夏雄なんという人がいる。ああいうのはどこまでいっても職工的であって、的が初めから違っている。これは名人肌でありまして、優れたものでありますから値段も相当高いのでありますがこれは初めから職工的です。それから是真《ぜしん》というようなものでありますが、あれは芸術的なところもないこともありませぬが、だいたい職工的です。これは両方ともそうはっきり水と油と違うように違うわけのものではありませぬので、これに対して両方に跨《また》いでいる。少し芸術的であって、大部分職工的なもの、大部分芸術的なもので、職工的に少し足をかけているというようなものもある。これはみなさんお考えになってもそういうのがあるだろうと思います。
 これはだいたいにおいて芸術的と職工的のお話でありますが、古陶磁の話に戻りまして古陶磁のごとき尊いもの、値段の高いものは、それはなぜそんなに値段が高くなるかといいますと、これは芸術的生命が多いから、古陶は平均して高い。陶器、専門的に磁器というのでありますが、青磁があります。青磁は平均して高いのでありますが、この青磁がなぜ高いかと申しますと、これが出来た年代が宋の時代でありますから、日本の鎌倉時代です。鎌倉時
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