ない、中国の字というのはそれは体裁ばかりがよいのであります。技巧的でありまして、形がよく、書にもし約束というものがありと致しますれば、その書の約束通りに行き届いた書が書けている。故にまあ知らないというのは失礼ですが、知らない人間から見た時に中国の書が大変立派に見えるが、知る者からは内容価値がちっともない。ちょうど立派な風采だけをつけたようなもので、容貌風采、出立《いでだち》がよいのであります。その出立に日本人は眩惑《げんわく》されております。それでありますから内容を見ない人間から見ますと非常によく見えるのであります。例えば羽織袴で立派な風采をしている人があっても、それが必ずしも立派な人間でない場合があります。中国の書はインチキではありませぬが、大体容貌風采がよいだけであります。内容価値が少ない、書の尊いということはやはり美術的人格価値が尊いのでありまして、よい書になればなるほど美術的人格価値があるのであります。絵におきましてもいうまでもない。彫刻におきましてもいうまでもない。いずれも美術的人格価値が高い場合においてその名が高いのであります。古陶磁がやはりそれと同じでありまして、値段の高い陶器は美術的価値が高い。それは職工的な場合でありましても、芸術的な場合でありましてもどちらでも同じであります。けれどもどちらかといえば芸術的の場合が高いのであります。それを絵で申しますれば、応挙の絵も実は職工的の方に大分足をかけている。半面は芸術的に足がかかっている。狙仙《そせん》の作のごときはもう職工的が大部分でありまして、芸術的にはわずかに触れているに過ぎないというようにいってもよいのであります。それらはだんだん日が経ちますにつけ篩にかけられて正当な芸術価値を評価されると思うのであります。また昔一国一城に代わる茶碗があったような話が遺《のこ》っていますが、あれは政治的にいろいろのかけ引きと行きがかりがあったと思いますが、今日さしずめ陶器価値の話となりますと一万円は一万円、二万円は二万円、あるいは千円は千円というようにその値を左右する根本義は芸術的であるか、職工的であるか、美術的価値がどれだけ多いか、少ないかというような検討に左右される結果と私は見ているようであります。私の体験の事実はそうなっております。そういうふうに考えまして私は一個の陶器も書画彫刻と同様一つの美術品と見ております。また私が多少でも製陶いたしますところから、それら古陶磁を一つの教科書としております。この意味で集めたものが今度展覧会に出しましたものであります。それをなぜ売るのかといえば、これはもう大分刺激がなくなったからであります。十年も持っておりますと、どんな尊いものでもだんだん刺激がなくなってくる。悪くいえば鼻についたのであります。よくいえば骨にも肉にも浸み込んだというようなものであります。そこでこれを一旦また他の好者《すきもの》に頒《わか》ちまして、そうして新しい刺激を得るような古陶器を再び取り入れようというのが今度展観する私の目的であります。それは一面からいいますと、ずるいというようなことになるかも知れませぬが、しかし考え方によりましては、私が陶製をだんだん進めます上において他によい方法がないのであります。私が岩崎、三井でなくても少し豊かな人間でおりますと、こんなけちなことをしないでもよいのでありますが、やむをえませぬ状態から、お店に御厄介になって目的に進むというような企てを考えたのであります。
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所
2008(平成20)年4月18日第1刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
1934(昭和9)年
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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